【車屋四六】ピアースアロー

コラム・特集 車屋四六

ジョージ・N・ピアースは1846年生まれ。18世紀末、冷蔵庫、洗濯機、子供三輪車など手広い商いに成功。特に儲け頭は自転車と鳥籠だったという。

テキサスに大油田が発見され、ライト兄弟のエンジン付き無人飛行機が飛んだ1903年、J、N、ピアースは、ピアース自動車会社を設立した。

売り出したのは、ドディオンブートンの単気筒2.7馬力搭載のピアース車で、評判良く36台が売れた。
これで自信を得たピアースは、翌年3.5馬力、更に3年目には二気筒15馬力を開発、アローの名を付けて売り出した。

最終的にピアースが目論んだ自動車は、プレステージが高い高級高品質車で、20年代にはロールスロイスのように、ピアースアローを買った金満家は、お抱え運転手をピアース自動車学校に二週間預けて、運転取り扱いの学習を受けるシステムになっていた。

ラスベガス・インペリアルパレス自動車博物館のピアース・シルバーアロー。泥よけ付き箱形キャビンが常識の時代この流線型は型破りだが、果たして後視界が確保できるだろうか。グレタガルボはお抱え運転手だから良いがオーナードライバーには嫌われるだろう

ピアースアローがもっとも輝いていた時代は30年代で、飛びきり上等な高級車が、35年には2152台も売れた。
が、その後の経済不況で38年には17台しか売れず、他の高級車同様、生き残ることが出来なかった。

ヒトラーが総統になった33年(昭8)、米国ではやがて日本に仇なすルーズベルトが大統領に就任、一方日本では平成天皇になる皇太子誕生で国中に喜びがあふれた。ついでに筆者も生まれた。

米国では禁酒法解除で呑んべーが歓喜、世界初のドライブインシアター登場の年でもあるが、日本は国際連盟を脱退、ドイツも脱退、そんな33年に誕生したのが写真のピアース・シルバーアロー、日本では日産自動車が誕生した年である。

前年完成の7.6ℓサイドバルブV12気筒搭載のシルバーアローは、金持ち相手とはいえ、あまりの高額で10台ほどしか売れなかった。

もっとも世界共通、金持ちは保守的だから、ステップがないフラッシュサイドの斬新スタイルが嫌われたふしもある。
当時の常識では、自動車は四角い姿で、泥よけが無く、ヘッドライトをフェンダーに内蔵、スペアタイヤも内蔵では、シルバーアローンが非常識の塊に見えたのも致し方なかろう。

売価1万ドルは、大衆車なら20台が買える金額だった。が、ハリウッド戦前の大女優グレタ・ガルボが愛用したシルバーアローは、安全ガラスを始め斬新装備&対策で、世界一安全な車を自負した。

写真の車は、95年ふとグランドキャニオンを見たくなり、途中ラスベガスのインペリアル自動車博物館で撮ったものだが、シカゴのワールドフェア出品の、今で云うコンセプトカーだったようだ。

この先進デザインの主、フィル・ライトは、52年登場のエアロウイリスを手がけた人物で、両車、美しさでは人目を引くセダンであった。

WWⅡ前一世風靡ハリウッドの大女優グレタ・ガルボ(右)、表題の映画は昭和7~8年に日本で上演されているが私は見てない