【車屋四六の good days and good cars】ダットサン物語-3

コラム・特集 車屋四六

関東大震災のとばっちりで、ジリ貧になった快進社は、軍用自動車保護法という国家の方針に載ってしまえと、四分の一トン貨物自動車なども開発するが、ジリ貧は解決しなかった。

とどのつまり、大阪の実用自動車に吸収されるが、新会社では生産車種を、ダット號と決定して、社命もダット自動車製造と改めた。

が、新会社も業績振るわず、会社は売却される…禁酒法のおかげで大儲けした、ギャングの大親分アルカポネが、年貢の納め時と投獄された1931年だった。

ダット自動車を買った石川島自動車製造所は、1933年に独立するが、これが、いすゞのルーツだ。

順当なら、ダット號は、いすゞからということになるのだが、現実はそうではなかった…そのころ戸畑鋳物という会社が、乗用車製造を目論んでいた。

戸畑鋳物は、ダット自動車の大阪の工場を70万円で購入した…さあこれで、ダット號を作れば、ということだったが、そうは問屋が卸さなかった。

工場をまるごと買えば、すべてOKと考えたのが浅はかだった…ダット號の製造権・技術者などが、自動車工業に引き継がれていたのだ。

ロールスロイスをVWが買収したら、作れるのはベントレイだけ…で、RRの製造権は、BMWが入手したというのと、同じ結果だった。

で、戸畑鋳物の鮎川義助社長は、ダット號の製造権と技術者を譲って欲しいと、自動車工業に頼み込んだ。

結果は{案ずるより産むがやすし}…自動車工業は、気持ちよく製造権と図面・技術者を譲ってくれた。しかも無償だったという。

もっとも、やがていすゞに発展する自動車工業の目標は、小型自動車ではなく、大型貨物自動車だったから、ダット號には興味がなかったのである。

鮎川はラッキー、強運の持ち主としか言いようがない。

いずれにしても、当時の日本は、軍国主義の発展中だから、輸入車ばかりか、フォードやGMの日本進出も頭痛の種…で、国産化奨励中だから、経営者の思惑もそんなところを踏まえていたのだろう。

この続きは次回に。

 

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