【車屋四六の good days and good cars】ダットサン物語-1

コラム・特集 車屋四六

日本の自動車史を語るとき、ダットサン抜きでは語れない…ダットサンの名付け親は日産自動車と思っている人が多いが、日産ではない。

まずダットサンを語るには、日産が製造権を買い取ったいすゞからだが、いすゞと日産の社史では、食い違いがある。

昔の日産には、嫌なものにはフタをしろ、的風習があった…もっとも、日産だけではなく、オ上も含めて、事実を隠したがる風習が日本にはあるようだ。

例えば、オースチンの社史には名車セブンと日産との関連が記載されているが、日産の社史にはない。日産には功績大で、米国自動車殿堂入りをした、片山豊の名も見つかない。

さて、ダットサンを語るには、1855年=明治8年に生まれて、東京蔵前工業学校を首席卒業。米国で見聞を広めた、橋本増二郎を忘れてはならない。

 

橋本増二郎 氏

 

帰国して、麻布広尾に自動車の量産工場・快進社を創業したのが1911年=明治44年だった…その日本初の量産工場は、35坪・従業員6名という規模だった。

その工場建設は、フォードT型誕生後、わずか3年後のことだった…が、軌道に乗り、豊島の長崎に工場を新設移転したときには、敷地6000坪、建屋600坪という規模になっていた。

大正3年に完成した、乗用車の名は脱兎号…V型二気筒・10馬力の31型は、大正5年には、直列四気筒・41型に進化して、好調に売れていった。

 

脱兎41型・2016年試作車

 

が、ここで突然、災難が降りかかる…大正12年の、関東大震災である。

壊滅した帝都の交通網の早期回復が必要になったとき、市電の復旧は時間が掛かる、と東京市は800台のT型フォードのバスを発注・投入した。

 

フォード・園太郎バス

 

余談になるが、ヤナセでは、頭痛鉢巻きだった在庫の山が、地震直後に完売した…それは、それまでは特権階級のものでしかなかった乗用車が、一般的に普及を始める切っ掛けともなった。

これからは日本で車が売れそう、と判った途端に乗り込んできた会社があった…フォードが横浜に、GMが大阪に、工場を建設して、フォードとシボレーを製造・販売を始めた。

で、とばっちりを受けたのが、快進社の脱兎号だった…舶来の自動車が安いのだから、日本製を買うこともないというわけだ。

もっとも、日本人には、明治維新この方、舶来志向が育っていたことも、不運だった。

ということで、好調だった脱兎号の快進社も、お定まりの合併劇に取り込まれていくのだが、それについては、次回にということに。

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