日本グランプリ黎明期の戦い(4/4)

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さて、第5回日本グランプリを制した日産はR381の進化型R382で次回参戦を表明する。が、FIAの規則変更でウイングが禁止になり、怪鳥R382もトヨタ7も、羽を失った形で仕上げられた。刀を取り上げられた武士のようだと笑われたりもした。

トヨタ7とエースドライバー細谷四方洋:全長4020×全幅1720×全高850㎜・ホイールベース2330㎜・車重680kg・ヒューランド5MT。

しかし日産は、念願の自社製V12気筒エンジンを完成。軽量化を追求したアルミスペースフレームとモノコックフレームの混成フレームを完成してR382を完成していた。ちなみに、新エンジンはV型12気筒・DOHC・5954cc・592HP/6500rpmという高出力を誇り、軽量化された車体の重さは、500㎏に仕上げられていた…旧プリンスの技術は世界レベルに達していたのである。

一方トヨタも、大排気量、髙出力のトヨタ7を完成し、これを迎え撃つ。そのエンジンはV型8気筒・DOHC・4986cc・530HP/7600rpmで、車両重量は680㎏だった。

ポルシェは、ポルシェチームの世界一流ジョー・シファートが、滝レーシングの招請で1969年登場したばかりの新鋭ポルシェ917で参戦を表明。917のエンジンは空冷180度V型12気筒・4494cc・520HP/8000rpmという性能で、車両重量は800㎏だった。

ポルシェ917ショートテイルクーペ/当時の日本輸入総代理店三和自動車配布写真。

が、917は不運だった。初めての日本のサーキット、そして下り坂の30度バンクを駆け下りるという状況で、短時間での調整が間に合わず、世界の一流ドライバーをもってしても勝てなかった…予選で7位、本番で6位というのが残念な成績だった。

さて1969年日本グランプリは、大会名誉総裁・高松宮宣仁親王殿下の開会挨拶で始まった。レースを賑わしたのは外国からの一流ドライバーで、ジョー・シファートに始まり、ハンス・ヘルマン、マイク・ヘイルウッド、ヴィック・エルフォード、ロザー・モッチェンバッハ、デヴィッド・パイパーなど。

グランプリレースの結果は、またしても日産の勝利に終わった。日産R382が優勝と2位、。3位~5位、トヨタ7。6位ポルシェ917。ポルシェは、917、908、910と多彩で、他にローラT70、マクラーレンM12、ローラT160、ロータス47Gなどが観客の目を楽しませてくれた。期待されたいすゞR7は、チューニング不足が残念だった。

さて優勝したR382は、さらに世界に羽ばたこうとしていた。アメリカの代表的レースCan-amに出場、そして制覇だった。同時にトヨタも準備を始めたのである。

日産R382はツインターボで900馬力と出力向上。同様にトヨタ7もツインターボで800馬力を得て渡米に備えた。もちろん両社70年日本グランプリも視野に入れてのことだった。しかし、その挑戦は内外共に果たせなかった。折からの排気ガス対策問題が持ち上がり、全力投球で研究開発費を対策解決に向ける必要になったからだった。

日産R382:全長4045×全幅1870×全高925㎜・ホイールベース2400㎜・車重700㎏・V12・5954㏄・ルーカス制御燃料噴射592HP/6500rpm・ヒューランド5MT。

1970年6月、日産は「大排気量プロトタイプでの高速安定性などの研究は所期の目的を達成したので、今後は環境から安全公害に全力投球するためにグランプリ活動を中止する」と宣言した。

トヨタもこれに同調して、日本モータースポーツのグランプリレースの黎明期に終わりを告げたのである。

(車屋 四六)

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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