日本モータースポーツの夜明け

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日本のモータースポーツは、昭和38年/1963年の日本GP開催で夜が明けたといってよかろう。が、それ以前にも小規模だがレースはあった。さて、敗戦で上陸直後の進駐軍は軍用車ばかりだが、占領行為が一段落して欧米の乗用車が増えるにつれ、クルマ好きな連中がクラブを作りクルマの遊びを始めた。

一方、敗戦直後の日本経済は貧乏のドン底で、自家用車どころではなかったが、朝鮮動乱によるアメリカ軍の物資調達と修理で特需景気が生まれて、ドン底から右肩あがりへの切っ掛けをつかんだ。

が、政府の金庫は空っぽ。で、自動車産業振興を旗印に小型自動車競争法を制定施行した。このオートレースは、ぶっちゃけクルマ博打での地方自治体のテラ銭稼ぎを法制化したものでスポーツではない。

ラリー出発直前のSCCJ会員の車:手前MG-TD・左キャデラック50年頃・後方左からダットサンスポーツ/MG-TD/ルノー4CV/MG。

さて1950(昭和25)年、裕福な進駐軍将校や軍属と数人の日本人が集まり、SCCJ=日本スポーツカークラブが誕生した。ラジオ受信機が並ヨンから五球スーパーに交代する頃だった。

戦前から長い間日本の放送は、NHK第一と第二放送だけだったが、民間放送局が増えると、真空管4本の並ヨンでは混信が激しく、近接周波数の分離機能に優れた五球スーパーヘテロダイン方式の受信機が登場したのである。

誕生したSCCJの活動は活発で、1951年7月の船橋レース場でのスピードレーレース。9月の東京~京都間ロードレースはミッレミリア日本版だった。11月、東京~日光間ラリー。52年7月、川口オートレース場でジムカーナ。56年7月、伊豆長岡ヒルクライム。57年6月、調布飛行場でのタイムタトライアルなど、全ての種目が日本初の行事だった。このような行事を共にして日本人会員は、マイカーでの楽しみ、とくにモータースポーツの楽しみを知り、学習していった。

船橋レース場を疾走するMG-TD:諸元・全長3734×全幅1518㎜・ホイールベース2388㎜・車重875kg・直4OHV1250cc・57馬力・4MT・前輪ダブルウイッシュボーン/後輪リーフリジッド。
調布飛行場のSCCJタイムトライアル車:先頭からビュイック/オースチンA50/プリムス/ダットサン/MGA/VW/ダットサン/MGA/シンガー/プリンス1500/MGA/?が3台/MGA/フォード。

この日本初連発の行事だが、船橋競馬場や川口のオートレース場などが使えたのは、天下御免の進駐軍ならではのこと、早くいえば役所も自治体も相手が進駐軍では泣き寝入りということだった。もちろん、茂原や白井、調布などの飛行場は米軍管轄だから、クルマ好きな司令官がいればOKということになる。

東京~京都間という長丁場のレースで、京都二条城前にゴールした優勝者のタイムは8時間43分。もちろん全車スピード違反だ。名古屋あたりで、先行する何台かが日本人警察官に捕まった。が、参加者の高級将校が名古屋の憲兵隊司令部に連絡して、全員無罪放免になったと、あとで鍋島俊隆/SCCJ会員から聞いた。

活発だったSCCJの活動もやがて休眠状態になる。朝鮮動乱での会員の戦死、そして休戦で帰国者が相次いだのだ。が、1955年/昭和30年、二つの自動車クラブが誕生する。今度は日本人主導で再開したSCCJと日本ダットサンクラブだった。

58年になると日野ルノー愛好者のルノー4CVクラブ誕生。以後、全国的にクラブ誕生が続くが、鈴鹿の日本GPでモータースポーツ熱に火が点くと、一気に増えてイベントも増えていった。

(車屋 四六)

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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