片山さんが渡米した頃のクルマはダットサン110型/1ℓで、それが進化して210型/1.1ℓになっても、市内では問題ないが、フリーウェイは怖くて走れない…遅い、加速悪い、ブレーキ効かない。
そうこうしているうちに、ブルーバード310型(愛称柿の種)が誕生。その米国名ダットサン1000/1200の性能はかなり上がったが、遅い、ブレーキが効かないの苦情は相変わらずだった。
片山さんが在日時代に道を付けた、イタリアの巨匠ピニン・ファリーナデザインの410型が登場しても、そんな苦情は続いた。
1963年登場の410型は、日本では姿が嫌われ評判悪かったが、アメリカ人は尻が下がっていようが上がっていようが気にしないが、やはり馬力不足という問題は抱えたままだった。でもダットサン1400は、片山さんの努力で売上げを伸ばしていった。
で、片山さんは1.6ℓエンジン搭載車を要請したが、売れているのだから、もっと売れるように努力せよと尻を叩かれそのまんま。
が、67年、待望の510型が登場する。こいつは片山さんのアメリカからの進言要請が反映されていた。強力でスムーズなOHCエンジン、メルセデス・ベンツのような四輪独立懸架、姿、装備、質感など、クルマ全体が予想外のできばえだった。もう安くて丈夫だけではなかった。
輸入車同士、性能が劣るダットサンを抱え、徐々にでも売り上げを伸ばし続けるオトッツァンが「これなら大丈夫と」優れたクルマを持ったのだから鬼に金棒。売上げの上昇カーブは勢いを増していった。
渡米し片山さんの陣頭指揮が始まった61年1000台ほどだった販売は、410型投入の65年には1万台を越え、510型登場で68年には4万台を越える。その後70年に10万台を越えると、20万台、30万台、40万台と70年代に急成長していった。
「陰謀でつぶされたタッカーの例もあり、デトロイトに気づかれるのが怖かった」とオトッツァンはいう。米国本拠をコスト高になる東部を避けたのは、目立つのを避けるという理由もあったという。
「西部から静かに成長して、デトロイトが気づいたころには客をしっかりと掴みダットサンの知名度も上がっている。目障りはつぶせというには遅すぎという状況にしたかった」といっていた。
フォルクスワーゲンは白人同士だから問題はないが、有色人種は駄目。永住権や仕事もできる資格のグリーンカードも「フォルクスワーゲン社員には出るが、日本人の我々が申請してもなしのつぶてだった」と苦笑していた。
さて、オトッツァンが太鼓判を押した510型の優秀さは他でも証明されている。第1回日本GPの頃から参加のサファリラリーて、日産念願の総合優勝を勝ち取ったのもブルーバード510だった。
チーム監督の難波靖治は、豪州ラリーでクラス優勝のダットサン富士号のドライバーで、片山さんの「追い越すな」の一言を守って優勝の難波さんは、片山さんが育てたといってもいい510型で、監督としてサファリ優勝、オトッツァンとは縁が深い人物である。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。