日本と同じく敗戦国ドイツも貧乏だった。

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戦争で瓦礫と化した国土、そして貧乏経済は敗戦国同士、日本もドイツも同じだった。で、考えることも同じ、走れば良し・使えれば良し、という廉価簡便型くるま造りがはじまった。

自動車後進国の日本でも、ニッケイタロー、テルヤン、フジキャビン、オートサンダル、バンビー、ポピュラーN4、ミニカ、カワムラ、ヤナセYX-360、MK600、ライトポニー等々、数多い。「よくこんなもの造ったもんだ」と云うような車もある日本に対し、ドイツは自動車先進国。BMW、ロイト、ゴッゴモービル、ハインケル、そしてメッサーシュミットなどの秀作が生まれた。

メッサーシュミット・カビネン・ロッラーKR200/1956年:乗降時に独特なキャノピーは押し上げられる/後席は1.5人掛け/バーハンドル/アンテナがあるからラジオ装備のよう。

世界に冠たる飛行機会社メッサーシュミットも敗戦で羽をもがれて自動車造りと、思っていた私の知識は間違いだった。

この世界に名だたる三輪乗用車を開発したのはF.M.フリッツ…町の若い技術者で、1952年完成の試作車を、多分恩師なのだろうメッサーシュミット教授に見せたら量産開始というのが実情だった。

で、1955年、ドナウ河畔レーゲンスブルグ工場から出荷されたのが、メッサーシュミット・カビネンロッラーKR175だった。

カビネン=キャビン、ロッラー=スクーター、KR175=ザックス製175cc発動機。発売されたKR175は好調で、55年に強化型KR200/201が登場すると、オープンが追加されている。この強化型は、920㎜のトレッドが1080㎜に広がったせいで、後席にゆとりが生まれ、夫婦+子供が楽に乗れるようになった。

ゼロ80㎞加速35秒、三分の一勾配も楽にこなし、最高速度が112㎞だから、アウトバーンでVWビートルなどと充分にタメを張れるようになり、評判も上々で売上げを伸ばした。

が、戦後の経済が安定するにつれ、欧州ではバブルカーと呼ぶ軽自動車の需要が減り始め、右肩下がりになるにつれ会社は財政難になると、フリッツは独立して生産を続行する。

で、58年に500cc搭載のTG500を発売したが、メッサーシュミットの名は消えて、自身の名からFMR・TG500と名乗った。

が、市場の要求は変わり、300台ほどしか売れず、KR175とKR200あわせて4万台も売れた時代に戻ることはなく、61年にフリッツの会社は市場から消えて逝った。

 

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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