日本の空を初めて飛んだのは誰?

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太平洋戦争敗戦で軍国主義と封建社会が去り、天皇(現人神/あらひとがみ)の人間宣言で、世の中から皇室偏重が消えた。
で、以前紹介した日本初走行乗用車(日本の道を初めて走った自動車)が皇太子御成婚記念の米車ウッズだったのが、戦後別の一番が出て来たように、日本初飛行にも細工の跡があったことを戦後になって知った。

私が戦闘機乗りになりたかった子供の頃、日本初飛行の一番は徳川大尉、二番が日野大尉だと教わった。現在の代々木公園は当時陸軍練兵場。明治43年/1910年12月19日、その原っぱに、モーリスファルマンとグラーデ、二機の飛行機が待機していた。

フランス製モーリスファルマン複葉機/代々木は画質悪く別機体:諸元/全幅10m全長12ⅿ全高4ⅿ・車重500kg・発動機ノーム式空冷星形七気筒・50馬力・乗員2名。

ファルマンの操縦は陸軍工兵大尉徳川好敏、グラーデは陸軍歩兵太尉日野熊三。そして徳川が離陸し高度70mで3分間3㎞を飛び観客の喝采を浴び、日野も離陸し高度45米で1分間1㎞を飛び、日本初飛行は徳川大尉、二番が日野大尉と決った。で、昭和15年/紀元二千六百年、代々木公園に日本航空発始之地なる立派な顕彰碑が建てられた…ゼロ戦誕生の年である。

代々木公園にいけば見られる立派な{日本航空発始之地}の碑:側に徳川好敏と日野熊三の胸像も建っている。

が、これには裏話がある…飛行日程は13日から19日までの一週間と決められていた。そして14日にグラーデが60m余の飛行に成功したことが、新聞にも報じられているから噂ではない。

いずれにしても軍国主義が終わる終戦までは常識的出来事。

天才発明家とも云われた日野は熊本の士族だが平民、片や徳川は徳川御三家で伯爵の御曹司だから、当然の結果だったと戦後に判る。

で、数日前の日野の初飛行は、滑走訓練中にハズミで跳んだジャンプとして片付けられたのは、日本初飛行の栄誉は華族にという陸軍の要望が功を奏したのだと聞く…結果、その後の徳川は少将にまで昇進、日野は後年左遷されて不遇な日々を送り、脳梗塞で亡くなったと聞いている。

さて当時陸軍は将来の空に注目し、二人を欧州に派遣した。徳川はフランスで操縦免許を取りファルマン機を購入帰国、日野はドイツで操縦免許を取りグラーデ機を購入帰国した。

ドイツ製グラーデ単葉機/代々木のは画質が悪いので別の機体:諸元/全幅10.5m全長12.0m全高2m・車重225kg・発動機グラーデ式四気筒・24馬力・乗員1名。

ライトのキティーホークの世界初飛行は1903年。それから7年で日本初飛行というのだから、日本陸軍も捨てたものではない。
また、欧州派遣の二人は、当時の不安定未完成な飛行機での操縦免許に、約半年で合格というのだから大したものだ。私などグライダー免許を持っていたとはいえ、通算1年ほどはかかった。

自動車の初はダイムラー→ベンツの順だが、こんにち世界初の自動車はダイムラーとベンツというように、日本初飛行も現在では徳川と日野で同年同日飛行と差別はなくなった。代々木に二人の胸像が並んで建っているのを見ても差別なしである…が、私個人的には日野熊三のグラーデ機が初飛行と思っている。

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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