銘車スカイラインの源流

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1999年瀕死の日産がルノー傘下に入り、01年青目の社長就任。大リストラ断行、村山工場閉鎖では数万人が失職と大鉈を振るって再生。Mr.ゴーンは世界が認める伝説的経営者になり、親元のルノーのCEOにも就任した。が、調子に乗り帝王的振る舞い、会社私物化などで逮捕…ルノーにも見放されて、故郷レバノンへ世紀の夜逃げ。が、レバノン経済は世界的最悪状態で預金を移せない。日、米、仏などにあるだろう数百億円の預金も持ち込めず耐乏生活を送っているらしい。また国外に出れば、逃亡犯逮捕だから、一生レバノン暮らしということになるのだろうか。

ゴーンの改革で伝統のセドリックやサニーの名も消えたが、生き残った中にスカイラインが居た。そもそもスカイラインの開発は日産と合併前の富士精密工業で、日本では業界初、57年の新車発表は東京宝塚劇場でのショー形式で、話題を呼んだ。
その性能は仮想敵クラウンを上回り、サイズも大きな四ドアセダンで、DX.120万円、Std.93万円と高級高額車だった。DXはやたらメッキが光る憧れの米車風情で法人公用車でも活躍した。

初代スカイラインDX:モデルチェンジでグロリアになる。

二代目になるとDXはグロリアに、小型化したStdがスカイラインの名を継承した。初代の日本初OHV・1484ccは60馬力でクラウンの48馬力を超え、最高速度125㎞、4MTは斬新米車風コラムシフトが嬉しかった。59年には70馬力に&130㎞の性能向上とは裏腹に、DX=108万円、Std=87万円の値下げは量産効果だった。

初代スカイラインStd:これが後のスカイラインの元祖になる。

乗用車技術会と呼ぶ団体で日本製乗用車を集めての、各社技術者の長距離比較試乗の結果は、①スバル1500/富士重工業、②スカイライン/富士精密→後にプリンス、③クラウンだった。この①と②両社の源流は中島飛行機である。

前輪Wウイッシュボーン/後輪ドディオンアクスル。加速感、操安性、乗り心地など当時の最高レベルだった。ちなみに初代Std側面のV型モールはサーフラインの源流で、丸形尾灯は二代目で登場し、共に伝統名物化する。

そして64年、二代目から派生するのがGT/88万円、2000GT/89.5万円。GTが第一回日本GPの惨敗雪辱で生まれたことはあまりにも有名だから説明を省くが、開発を任された戦後派の若き技術者・桜井真一郎が、小型化された二代目スカイラインの四気筒用エンジンルームに、グロリア用の六気筒を押し込む大手術を敢行して生まれたのが、後々までの語りぐさになるGTだった。

話は戻して、初代のヘッドライトは二灯型だったが、60年から流行に添い四灯型式に進化する。また62年に伊名門カロッツェリア・ミケロッティの手になるスカイラインスポーツは185万円という高嶺の花で60台しか売れなかったことも話題を生んだ。この時、チューニングで94馬力になり速度は150㎞になるが、優れもののサスペンションは改良不要だったと聞く。

初代スカイラインをミケロッティがデザインすると。

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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