フライングフェザーと片山豊

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WWⅠ後の1924年ドイツに登場した軽自動車ゴッゴモービルは、敗戦貧乏庶民にふさわしい車として迎えられた。同様に、WWⅡ敗戦の日本にもフライングフェザーと呼ぶ、優れた軽自動車が登場したが、受け入れられなかった。ドイツの戦前には車社会があり、日本の戦前に庶民は車には縁がなかったのが原因だと思う。

フライングフェザー/昭和30年発売/トヨタ博物館蔵:薄い鋼板で軽量化・自動二輪用タイヤ転用で四輪独立懸架・無駄を削ぎ落とし全てに簡素だが一人前の自動車形態だった。全長2667×全幅1296×全高1300㎜・WB1900㎜・車重400kg。

さて住江織物出資の住之江製作所は、日産車ボディーを作る会社で、日産から移籍したデザイナー富谷龍一が居た。戦前、片山と同じ頃入社した富谷は、ダットサンや他のデザインを担当し、戦後は住之江でダットサンスリフトなど生み出した人物。

一方日産には、敗戦で満州から帰国した片山豊が古巣に戻り宣伝に活躍していた。片山は、敗戦貧困時代にふさわしい無駄を省いた安価な軽自動車を考え、富谷とコラボを組んだ結果生まれたのが、フライングフェザーだった。

戦後、町工場が作ったような軽自動車が沢山生まれたが、自動車造りのプロが開発したフライングフェザーは、完成度が高い軽だった。が、戦前に車を知らない庶民には受け入れられなかった。
結果、活動期間は僅か一年ほどで、48台の生産で終わった。試乗したヤナセの梁瀬次郎社長は試乗後「売れる」と云っていたのに。

余談になるが、この開発に片山は日産上層部に話を通してなかったようだ。ただ良い車を作れば世の中に役に立つとの思いが先行したようだ。結果「出る釘は打たれる」の諺どおり、後に経営陣に嫌われ片山ボイコットに、引き金を与えてしまったようだ。

姻戚関係にある日産コンツェルンの頭領鮎川義助が日産に呼んだのは、いずれ社長に、だったようだ。が、敗戦で財閥解体、経営は銀行系になり保守的になった所に、自由闊達な片山が思った意見を具申する、嫌われてもしようが無かったろう。

彼が企画した豪州ラリーはクラス優勝なのに帰国すると座る椅子が無く、米国出向も左遷で、売れない市場なら勝手に退職するだろうとの魂胆。が、努力と知恵で大成功し仕方なく社長に。と次は米国自動車殿堂入り。経営陣には不快だらけで帰国すると、天下り先は功績ある人物には不似合いな子会社、いや小会社だった。が、片山さんは105才で亡くなる最後まで日産が好きだった。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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