教科書にも出ている豊田佐吉は著名だが、成功した自動織機と共に自動車開発も夢見ていた。が、時期尚早で、夢は長男喜一郎に託された。で、喜一郎は豊田自動織機社内に自動車部を創設し、研究開発を始めた。
そこで未知の世界の手本として選んだのが米国大衆車シボレーで、紆余曲折のあと開発に成功し、AA型乗用車を完成したのが1936年だった。で、37年にトヨタ自動車工業が誕生発足した。
ちなみに日本で自動車が本格的活躍を始めたのは、23年の関東大震災後。早速上陸し生産を始めたフォードとシボレーが圧倒的強さを見せて、日本市場のシェアを二分した。
で、自動車製造には財閥も敬遠していたが、喜一郎は王者の二車とは競合せず、両車の長所を研究、日本的大衆車の完成を目標としたのである。もっとも当時の大衆車とは今とは解釈が異なり、金満家御用達高級車に対してだった。一方この米国製二車は、タクシーの大半を占めていた。
AA型発売は36年だが、実は35年にG1型貨物自動車を発売している。こいつは商工省と陸軍省が、外国車氾濫は国策上思わしくないと、貨物自動車と乗合自動車/バスの製造要請を発したからだった。
紆余曲折したエンジン開発では、独特なフォードを真似ると国際道義上問題が生じると、各社共通標準的構造のシボレーを開発目標としたが、当初目標馬力が出ずに苦労したようだ。
一方、ボディーは木骨上に鉄板を貼る世界的傾向の先を越し、宣伝文句通りのオールスチールボディを採用。スタイルでは流線型流行の兆しを見せる米国の風潮を考慮し、クライスラー・デソートを参考にしたようだ。
トヨタの開発は全て国産だったが、対する日産は違った。経営不振の米国グラハムペイジの工場、機械設備、図面、金型等を丸ごと買い、横浜に移設して37年に量産開始で、セダンとフェートン合わせて5500台を生産した。
一方、AA型は353台の生産にとどまり、量産工場を買い取った日産との差が生じている。ちなみにAA型の価格は3885円で、日産70型標準型4000円、DX型4500円だった。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。