戦前戦後の車の変遷10

all コラム・特集 車屋四六

百瀬晋六:中島飛行機が15社に分割された中の6社で富士重工が誕生して発売した、スバル360を開発した人物。中島在籍中は発動機開発だったが、スバル360では、自動車業界では未知のアルミや樹脂、斬新なモノコックボディーを採用、超軽量仕上げに成功したのは、やはり飛行機屋ならではの発想と経験からだった。

が、スバル360の前に1.5Lセダンを開発したが、未発売のため人呼んで{幻のP-1}。終戦直後の自動車企業は銀行評価ではワースト企業。で、資金繰りが付かず発売を断念したが、1956年自動車技術会主催試乗会では、プリンスやクラウンより高い評価を得た。
このP-1に搭載予定のエンジンは富士精密製だったが、プリンス自動車として独立してスバルグループから離れたことで搭載を断念し、急遽内製して対応した。

一方富士精密のエンジン開発そもそもの発端は、電池からガソリンへ転換した、たま電気自動車用として開発依頼を受けたものだったが、その後、クラウンより1年早く誕生したプリンス號に搭載することになる。

中川良一/中島飛行機:最後は合併で日産の専務になるが、プリンス自動車の前身である富士精密操業時からの中心人物だった。富士精密は中島が財閥解体令で分割された会社の一つだった。

中島では、ゼロ戦で知られる栄型950馬力の高性能化で1150馬力に。そして次ぎに開発した誉型2000馬力は、米軍が舌を巻いた疾風や紫電などに搭載され活躍し、戦後は米国に招かれて、その性能に兜を脱いだ米国発動機開発各社のトップ技術者に発動機開発の講義をしたというのだから名実共に、世界に誇れる発動機の巨匠と云っても過言では無かろう。
余談だが、トヨタの豊田英二とは帝国大学(東大)工学部で同期だったそうだ。

1970年頃だったか「終戦後の自動車エンジンはひどいものだったが、飛行機エンジンは、構造、燃焼理論、性能、どれを採っても世界最高水準に達していた」と対談後に話していた。
巨匠が率いた会社らしく日産と合併前のプリンス自動車のエンジンは、量産車用、競走用を含めて日本最高だったと云っても異論を唱える人は居なかろうと思う。

まだまだ紹介したい人物は多いが、書いているうちに日本を牽引した彼等の大半が東京帝国大学工学部出身者だと気が付いた。この一握りの技術屋達が「追いつけ追い越せ」を旗印に、短期間で飛行機を世界最高にまで育て上げたたが、敗戦で翼を失い、今度は同じことを自動車で繰り返したのである…もちろん彼等だけの功績ではないが、彼等が牽引したことは間違いのない事実である。

中村良一は「F1エンジンをやる時世界の最新エンジンを調査したが驚きも感心もなかった」飛行機で経験済みの事ばかりだったからと。
「戦後の50年で日本自動車業界は我々が蓄積した技術を使い切った・日本が世界のトップを走り続けるには21世紀に向かい基礎技術の研究開発が必要だ」と、中川さんは云っていた。

プリンス1500セダン

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

Tagged