戦前戦後の車の変遷9

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長谷川龍雄:トヨタの近代的乗用車造りの基礎を築いた人物。戦争末期の立川飛行機で、1万メートル上空のB29を挟撃する高高度戦闘機を開発したが、残念ながら試作機完成と終戦が重なった。

陸軍キ-94Ⅱ/立川飛行機:2500馬力・最大速度712㎞/1万メートル・20㎜機関砲x2&30㎜機関砲x2/操縦席は与圧型

 

トヨタに来て「現場合わせで車が出来る・強度計算なし部品の重量管理もない・不思議だった」と述懐。1946年入社当時の日本の自動車とはそんなもので、飛行機屋の概念からは想像も付かなかったようだが、そんな時代に空力の必要性も説いている。

見えない所での長谷川の活躍ははかりしれないものがあるが、代表作の一台パブリカ開発で、軽量化には飛行機では慣れた材料と、当時自動車には無縁のアルミや樹脂を、80%パワー巡航に必要なのは700ccとの逆算も飛行機屋流だった。

次ぎに小型エンジンで高性能は空力でと開発したのがトヨタS800。また日本の悪路では無理と云われた三枚リーフスプリングを採用、素晴らしい乗り心地のクラウンを完成、そして世界のベストセラーに登りつめるカローラを世に送り出した人物なのだ。

外山保:敗戦で「飛行機から羽とプロペラを取れば自動車・動力は発動機・薄板加工の工作工程も同じ・空を飛ぶか陸を走るかだけの違い」と立川飛行機から独立して東京電気自動車を創業し、たま電気自動車が生まれた。

当時の日本は、戦中からの統制でガソリンがなく木炭車全盛だったが、知識のない自動車を作りやすい電気自動車という着眼点もまた飛行機屋らしい。が、売りだすと予想外のヒット作となり、1948年/昭和23年の通産省主催の電気自動車性能試験では、三菱、日産、トヨタ、神戸製鋼などの10台中、13試験項目中12項目でトップという結果だった。

が、1950年の朝鮮動乱で蓄電池の鉛が高騰して、やむなくガソリン車に転向したが、やがてエンジン供給先の富士精密と合併して、プリンス自動車が誕生する。そして中島出身の中川良一の下で次々を優れたエンジン開発をしたのは岡本和理だった。

中村良夫:中島飛行機入社後、日立で加給機開発に従事、日本初ジェット開発、終戦で退社し「四輪車製造とレースをやりますか」と本田宗一郎に確認して日本内燃機から本田技研に入社した。

ホンダでは日本初量産DOHC搭載のスポーツカーSシリーズを開発、軽自動車の革命児N360を開発するも、持ち前の一本気から頑固な本田社長と技術面で折り合わず、新車開発から離れたのがF1界で活躍の切っ掛けで、世界に知られる名監督となる。

中村健一:川西飛行機で戦争末期に米軍が恐れた名戦闘機紫電の開発に従事。戦後東洋工業に入社し会長にまで登りつめるが、ロータリーエンジン量産技術を確立した世界的著名人である。

ちなみに川西飛行機(現新明和工業)は、飛行艇では戦前戦後を通じて世界最高の技術を誇り、世界最高と云われている四発二式飛行艇は、長らくお台場の船の科学館前に展示されていた。

海軍二式飛行艇21型/川西飛行機/写真船の科学館前:火星1480馬力x4・最大速度454㎞・航続6950㎞/24時間・20㎜機関砲x2&30㎜機関砲x2・爆弾60kgx6or250kgx8/世界最高の対波性能を誇った

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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