戦前戦後の車の変遷4

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日本陸軍の先見の明、ジープより先に完成した{くろがね四起}に味を占めた陸軍は、次に軽自動四輪起動車を企画したのは、日本の国力、自動車生産能力に不安があったのかもしれない。

1938年/昭和13年、日本内燃機、陸王内燃機、ダイハツ工業、岡本自転車、京三製作所が試作車を納入したが、何故か没になった。
が、その前の1936年、陸軍はドイツも考えなかった世界初の優れものを開発採用していた。98式軍用側車…陸王の自動二輪車の側車にも駆動力を伝えるという画期的軍用オートバイだった。

三共製薬出資の日本ハーレイダビッドソンが陸王に改名するのは陸軍の策謀だったのだろう。純国産になった陸王は軍に納入され、その側車に後輪からシャフトで駆動力を配分したのが1936年生まれの98式軍用側車だった。

このサイドカー付きオートバイの評判は良かったが、98式というと四起乗用車もあった。こいつは軽自動車ではなく、定員7名の大型幌型乗用車で、いすゞ四輪起動指揮官車と呼ばれた車は、1935年以前に不採用になった、ふそう四起/三菱造船の技術が活かされたと聞いている。いずれにしても、この手の大型4WD乗用車は、ドイツ軍のベンツやホルヒが先輩である。

さて、日本の軍用4WD自動車は、技術はともかく先見の明だけは優れていたことが判ったが、太平洋戦争が始まり、東南アジアで景気よく戦っていた時に、退却米軍が放置したジープを捕獲したが、その性能と実用性の高さに惚れ込んだ陸軍は「こんなのが欲しい」と白羽の矢を立てたのがトヨタだった。

が、ケツの穴が狭い日本陸軍は「姿がジープに似てはいけない」と注文を付けたと聞く。で、1944年に完成し、性能試験にも合格し、四式小型貨物車として正式採用されたが、敗戦により実戦で活躍することはなかった。

トヨタ四式小型貨物車/1944年:南方戦線で捕獲のジープに惚れ込んだ陸軍が「姿は似せるな」の指示で生まれた日本製ジープ。

が、この時の技術が、戦後の警察予備隊の四輪駆動車競作で生かされ、三菱ジープに破れたあと、ランドクルーザーに生かされたのは間違いないことだろう。

日本陸軍の4WD =四輪起動車の総生産量は、くろがね四起4775台、いすゞ四起指揮官車1万5048台余りだが、米軍はジープだけでも僅か4年間で64万台、もちろんキューベルワーゲンを含むドイツ軍の総生産量も桁違いと聞けば、先見の明などと威張っても、いささか元気をなくすのではないだろうか。

これで、自動車後進国としてのWWⅡを含む戦前の50年は終わったが、後進国としての地位は戦後も暫くは続くことになる。
もっとも、敗戦で進駐軍占領下の日本はGHQ/連合軍最高司令部により自動車製造が禁止されるので、暫くはお休みということに…この間の日本は、戦争中を生き残ったトラックやバス、自転車やリヤカー、大八車や牛馬車が活躍した。

一方、役所や企業、タクシー等は生き残りの乗用車。そこに第三国人の車を、違法だが名義借りで乗るようになるが、違法と云っても、大臣、高官、大企業経営者が乗っていたのだから、何が違法なのか合法なのか、我々庶民には理解出来なかった。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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