スチュードベイカーという会社はもうないが、1902年/明治35年創業という老舗で、前身の馬車メーカーなら更に遡り、1852年ということになる。
さてWWⅡ中は、兵器生産に専念は当然として、戦後世界のGDPの半分は米国と云われたほど景気の良い米国で、一時期、フォードと共に、カーデザインの最先端を行く存在だった。
当時世界一だった米国の1950年の乗用車生産量は530万台。ちなみに同年の日本は3600台。まことに惨めな格差だった。
スチュードベイカーの姿の良さは当然…{口紅から機関車まで}と賞賛されたデザイン界の巨匠レイモンド・ローウイの作だったのだ。ちなみに戦前の姿ばかりの英車の中で一際斬新姿、いすゞで国産化されたヒルマン・ミンクス、また日本の煙草ピースの燕デザイン、米国ラッキーストライク、英国シェル石油の貝印、大型旅客機ロッキードコンステレイション、どれも彼の作品なのだ。
さて、問題の最先端デザインのスチュードベイカーの新型登場は1950年。フォードの斬新フラッシュサイドのボディーデザインには1年遅れたが、前か後ろか判らぬ姿の後ろ姿に驚きながら前に廻ると、其処には朝鮮の戦場に登場したばかりのジェット戦闘機の吸気孔を思わせる穴がポッカリと口を開いていた。
こうして自動車界を驚かせてから4年目に到来したフルモデルチェンジで、またもや注目される逸品が誕生する。54年型クーペの姿は、米国流斬新さから一気に転換して、イタリーのカロッツェリアの作ではと疑いたくなる、完璧とも思えるスタリングだった。
低いスラントノーズから流れるようなラインの流線型は、2995㎜というホイールベースの4ドアセダンより長い、3060㎜というホイールベースの影響も見逃すことはできないだろう。
が、50年型、53年型、共に美しいのはクーペで、フォードアセダンの方は、別物のように姿が悪い。と云っても後半部で、噂ではクーペに後部ドアを足した後半部のデザインは、ローウイではなく、車内のデザインチームのようだと聞いたことがある。
いずれにしても、ビックリした50年型クーペ、惚れ惚れとした53年型クーペ、ともに当時の米国を代表する、前衛的スタイルのアメ車の傑作として認知され、デザイン関連の本には度々登場することで、それが証明されているようだ。
このようにして戦後の一時期、一世風靡したスチュードベイカーだが、50年代半ばに米自動車業界に淘汰の波が押し寄せると、54年に名門パッカード合併したが、生き残れずに消えていった。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。