ヒーレー100の想い出

コラム・特集 車屋四六

英国は戦勝国ではあるが、WWⅡでドイツ相手に戦った被害は絶大で、戦後は経済復興にテンヤワンヤだった。が、その目鼻もつき始めた1952年秋の英国アールズコートショーで、ヒーレー社の二座席スポーツカーのプロトタイプ「ハンドレッド」が人目を引いていた。

ヒーレー社は、レーシングドライバーだった、ドナルド・ヒーレーが46年に創業したチューニングメーカーだったが、幾つかのカスタマイズ作品を経て、登場したナッシュヒーレーがルマン24時間で活躍して、すでに知られた存在となっていた。

オースチン・ヒーレー100のカタログより:センターロックホイールの様子が判る

さて、冒頭のハンドレッドの由来は、彼の車造りのコンセプトが全て100マイルオーバーということで、このプロトタイプのベースは、オースチンのスポーツカー、A90アトランティックだった。

当時のオースチンは、戦前からの大メーカーで、A40やA90というスポーツカーもどきはあったが、本物のスポーツカーがなく、早速とびつき、オースチン・ヒーレー100と銘打って売りだした。

もちろん米国市場を狙ったものだが、その狙いは的を射て、人気は上々。当時の米国市場は、欧州駐留の米軍兵士が帰国時に持ち帰ったスポーツカーで、レースやジムカーナが始まり、一つの市場が形成されつつある時期だったから、タイミングも良かった。

当時の米国は、54年にGMからコルベット、55年にフォードからサンダーバードが誕生する前だから、スポーツカーは全て輸入の時代だった。MG、シンガー、トライアンフ、ジャガーなど英国勢に加え、アルファロメオ、少し遅れてサンビームタルボ、ジェンセン、ACエース、アラード、ポルシェ、ベンツなども加わった。

ヒーレー100は最高速度170㎞。変速機は四速マニュアルだがインパネのスイッチでON/OFFする電気式オーバードライブはⅢ・Ⅳ速に作動して、結果前進六速という仕掛けになっていた。
全長3850㎜・WB2290㎜・車重1046kg・センターロック型のワイヤースポークホイールが如何にもスポーティーだった。

私は進駐軍将校から買ったヒーレー100を暫くのあいだ楽しんだ事があるが、想い出はSCCJ/日本スポーツカークラブの恒例長岡のヒルクライム競技での優勝だった。一世風靡のMG-TDのような軽快さを楽しむスポーツカーではなく、豪快に加速をする英国らしい本格的スポーツカーだった。

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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