米国が元気だった頃の最上級クライスラー車

コラム・特集 車屋四六

世界一の自動車大国だった米国で、WWⅡを挟んで淘汰の波を乗り越えたビッグスリーとは、上からGM→フォード→クライスラー。
そのクライスラーも安泰ではなく、世紀の合併劇と世界を驚かせたダイムラーベンツとの結婚…まさかの離婚。そしてフィアットとの再婚で、現在落ち着いている。

WWⅡが終わり、戦勝国米国は、世界のGDPの半数を超えると云われた景気の良さを背景に、乗用車はメッキの派手さを増しながら、より長く、より広く、と競いながら馬力競争に明け暮れていた。
もちろん生き残り合戦の激しさは云うまでもないことだった。

その中で、1954年頃のクライスラーの車種構成は、下からプリムス、デソート、クライスラー、そして最上位のクライスラーには、下からウインザー、ニューヨーカー、インペリアルの3シリーズ。
が、市場の高級化に合わせて、55年になると、インペリアルが分離独立車種に。要はトヨタのセルシオからレクサスというパターン。

1955年型クライスラー・インペリアル・セダン:メッキが豪華、ホワイトタイヤにセンターロック風ホイールカバーがシックだ。

インペリアルはクライスラー社の最上級シリーズらしく、最上級八座席三列シート・リムジンのホイールベースは、3750㎜で全長6063㎜。通常の4ドアセダンでもホイールベース3250㎜で、その価格は4483ドルと高額だった。

ちなみに当時の為替は1ドル=360円だから161万円ということになるが、安いじゃないかと云っては困る。当時の日本は外貨不足で55年から外国車輸入禁止。で、日本人向けは、在日外交官や外国人が買い3年経てば通関出来るという仕組みだった。
で、3年経ったインペリアルセダンの相場は600万円前後。大卒初任給が、1万円前後の話である。

55年は昭和30年。自動車後進国日本が世界に追いついた頃で、{100㎞・悪路で四輪が一輪ずつ上下する独立懸架で乗り心地最高}と新聞が報じて、トヨタから登場したのがクラウンだった。

ラジオとヒーターが付いていると感心したクラウンに対し、インペリアルのラジオは自動選局+伸縮自在の自動アンテナ、パワーウインドー、パワーシート、パワーステアリング、パワーブレーキ、オプションでエアコンと、同じ最上級車とはいえ、クラウンとは雲泥の差があった。

55年頃、米国の高級車というと、キャデラック、リンカーン、インペリアルで、戦前の名門パッカードも未だ生き長らえていた。
戦前となれば、デューセンバーグ、ピアースアロー、オーバーン、コードなど、名門高級オンパレードだったが、戦争を挟み淘汰の波が訪れた結果、20世紀/100年を経て21世紀に生き残った米国高級車は、キャデラックとリンカーンだけになってしまった。

インペリアルと同年代1954年型キャデラック60スペシアルセダンのカタログ:回り込んだ窓ラップアラウンドウインドーが特徴/左側尾灯の赤レンズを跳ね上げると給油孔が現れた。

さて、クライスラー社のフラグシップだったインペリアルは、ベトナム戦の泥沼に嵌り米国経済全体が下降するのと並行して、75年に市場から消えていった。

ダイムラークライスラからのクリスマスカード:車は1946年型クライスラー・タウン&カントリー/ボディー後半部をウッドワークで飾った高級シリーズだった。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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