ダイハツのグランプリ

コラム・特集 車屋四六

昭和38年(1963年)の第一回日本GPは、鈴鹿サーキット主催、JAF公認レースだった。が、62年発足のJAFは直前まで国際自動車連盟=FIAのレース公認権を持っていなかった。で、公認権を持つ日本自動車協会=JAAから権限譲渡に成功したのは、レース開催直前の二ヶ月前という綱渡りだったのである。
 
 で、ようやくJAF公認で開催決定するが、なにぶん初めてのこと、海の物とも山の物とも判らぬレースに参加者の反応もまちまちで、日頃の愛車にナンバーを付けたまま走り、終われば帰宅という案配。
 
 一方、自動車工業会は「アマチュアの祭典だから不参加」と決めてメーカー傍観の紳士協定を結んだが、掟破りがいるのは世の常。
 トヨタやスズキは密かにファクトリー体勢を整え、軽市場トップのスバルは市販車で勝てるとノンビリ、プリンスも市販車でと自信タップリ、いすゞは参加熱心な販売店任せ、マツダと日野は特に興味はなく、ダイハツは第一回・第二回ともに不参加、日産はサファリを目指しGP無視するもダットサンクラブ員の強引出場宣言で仕方なくフェアレディのチューニングをして瓢箪から駒が出る。
 
 結果は、トヨタとスズキは出たクラスで軒並み優勝をかっ攫った。
 さて日産だが、米国日産片山豊社長からのチューニングキットで武装したフェアレディ1500は、終始トップで優勝、その宣伝価値の大きさに各社気が付いて望んだ第二回では、プリンスがポルシェと一気打ちで二着ではあったが効果てきめんで、スカイライン2000GTというベストセラーが生まれたことは周知の事実だ。

 で、各社、レースの宣伝効果に気が付いたが、第三回は鈴鹿とJAFの間で話まとまらず、一年の空白期間を置いて、新装なった富士スピードウエイで開始されたのである。

 この第三回目GPが初参加のダイハツは、ベルリーナ2台にプロトタイプのレースにベルリーナベースで開発したP-3を2台参加させ、ドライバーには久木留博之と佐藤僚隆夫を起用した。
 結果は、ベルリーナのクラスはホンダS600に負けて優勝しそこなったが、P-3の方はクラス優勝で念願を果たした。
 P-3はスマートな軽量FRPボディーでグループ6に参加、ロータスエリートやアバルトシムカという世界の一流と対戦した。

ダイハツP-3/第三回日本グランプリ/FISCO:GP-Ⅰクラスでゼッケン①ロータスエリート波瑳栄菩武②アバルトシムカ1300佐藤清人③ダイハツP-3久木留博之④ダイハツP-3吉田隆郎⑲はGP-ⅡのジャガーE安田銀治/P-3クラス優勝。

 さてダイハツの第四回GPは、それまでに得た技術ノウハウを注ぎ込んだ、ミドシップ型GPマシーンを開発、P-5の名で参戦した。
 が、調整不十分だったのか、下馬評の高さとは裏腹に、予選で敗退したが、いま少し時間の余裕があれば、実力からして好成績を史上に記録されただろうに惜しいことをしたものである。

 我々は、次のレースに期待をしたのだが、トヨタとの提携が成立して、以後ダイハツはレースから撤退したのは、返すがえすも残念なことだった。

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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