日産がオースチンをライセンス生産する前、昭和20年代からオースチンの輸入元は、大阪の日進自動車で米国スチュードベイカーも扱っていたが、東京では販売テリトリーの関係かオースチンのみで、所在地は芝園橋際、現在の首都交芝公園口の所に工場併設の販売店が在った。
WWⅡ後英国は、莫大な戦費と爆撃で焦土と化した国土からの復興で{ブリティッシュ・エキスポート・ドライブ}輸出奨励政策実施、老舗オースチン社の生産再開は速かった。
先ず戦前型での生産再開は他社同様だったが、1947年には早くも戦後開発の新型A40型デボンとA70ヒアフォードに衣替え、更に54年ボディーを一新したA50型ケンブリッジに交代する。
さてA40サマーセットはデボンの後継となるモデルで、全長4050×全幅1600㎜・WB2350㎜・車重972kg・直四OHV・1200cc・42馬力だが、A40スポーツは、WBはそのままに全長を4000㎜、全幅を1540㎜と小振りに仕上げたものだった。
エンジンの圧縮比は変わらず、A40スポーツではキャブレターがゼニス型一個から、SU型二連装になり、42馬力が48馬力に向上していた。前輪Wウイッシュボーン/後輪リーフ+リジッドアクスル、四輪ドラムブレーキ、タイヤ525-16などは変わらず、燃料タンクが40ℓから37ℓに減っていた。
A40サマーセットは、輸出優先の全世界向け商品らしく、計器類はインパネ中央に集め輸出先に合わせて左右どちらのハンドルにも対応可能だった。
が、A40スポーツは英国向けと割り切ったようで、ハンドルの右側に速度計・水温計・燃料計・油圧計・電流計などがセットされていて、運転しながら見やすい位置なのが気に入った。
当時は未だ大英帝国の名残が世界中に残っていたから、オーストラリア・ニュージーランド・香港・インド・タイ・ビルマ・アイスランド・ジャマイカ・ケニアなどは右側通行で、右ハンドルの需要が旺盛だったのだ。
余談になるが、A40サマーセットは私の愛車の一台だった。想い出すのは英国風始動・外側を回すとライトスイッチの中央鍵穴にキーを差し込んで捻り、別のインパネ上のスタータスイッチを、力をいれて引っ張ると始動した。
日本で、オースチンスポーツは非常に珍しかった。芝の日進自動車工場に来ていた3Aナンバーの車、それが街を走る姿、そして調布飛行場のジムカーナに出場と、見たのは三回だけ。
WWⅡ前後の英国は、自動車の輸出大国で、A40スポーツ誕生の53年、年間生産60万台のうち30万台を輸出して外貨を稼いだ。
一方、米国の年産600万台で、輸出が15万台と対照的だった。
ちなみに53年の日本の年産は8498台で輸出は1台だった。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。