バンコクで出会ったクライスラー300

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2011年からバンコクの国際自動車ショーは、バンコク市内のバイテック会場から、郊外のインパクト会場に移った。日本で晴海から幕張に移ったようなもの。宿泊が会場に隣接するノボテルは便利だが、疲れを癒すマッサージにはタクシーが必要になった。

さてバンコクのクラシックカー第三弾は、クライスラー300。数字が示すように300馬力は、当時の米車の中で最強を誇った。
WWⅡ以後、景気が良い米国の乗用車は、巨大化・髙出力化の競争に明け暮れていた。その時代を象徴し、最先端を走ったのがクライスラー300だったのだ。

1950年代、ク社の陣容は、大衆車プリムス、中級デソート、高級クライスラー、最上がインペリアル。クライスラーの中で、最上級ニューヨーカーが235馬力だが、300は馬力と共に値段も最高だった。
以後300は年を追う毎に300B→300Cと進化しながら馬力アップを続けて、300E→300Fでは6769cc・413馬力に達した。

この馬力競争は、どこまで続くかと興味津々だったが、突然終止符が打たれた。排気ガス規制の影響だった。これで300も終わりかと思ったら、出力は初代の300馬力に戻ったが、1965年の300Lまで頑張り続けた。が、これで終わりかと思ったら、伝統のWB126インチ/3150㎜が3100㎜に短縮され、ニューヨーカーの下位モデルとして更に生き延びたのである。

さて、300は当初クーペでの登場だったが、57年からコンバーチブルが登場し、クーペ$5319に対し$5749と高額だった。
バンコクの300のリアフェンダーのモールに300のバッジがあるが、それで59年型300Eと判るが、その生産量はクーペ550台、コンバーティブル140台である。

写真で判るように、姿は長大で幅広、四灯式ヘッドライト、ピント跳ね上がったテイルフィン、大きく曲がりこむ窓、白タイヤ(900-14-4p)、どれも当時アメ車の定番装備だった。

まだ三角窓が健在で、私が乗った300クーペの三角窓のステーはガタが来ていた。「急加速を楽しむたびに柱を掴み加速のGに耐えていたので」とオーナーの米軍将校が説明してくれた。

で、私もやってみた…アクセルを床まで踏み込むと、ATなのに強烈なホイールスピンでタイヤの悲鳴が長く尾を曳き、2速にシフトアップで悲鳴再開、後方路面に二本のスリップ痕が黒く長く残っていた。大馬力ならではの、猛烈ダッシュである。

銀色に輝くアルミ板のインパネがスポーティー・中央ラジオの下は大きな灰皿・二個しか見えないがインパネ左端にギアシフトの押しボタン(1・2・3・R・PRK)。幅広ブレーキペダルも当時の特徴

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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