乗用車製造禁止時代のパッカード

コラム・特集 車屋四六

「パッカードの真価はオーナーに聞け」は創業以来の名文句…「セールストークは他社の商法」とうそぶき、その高級高品質は世界に浸透し、米国のロールスロイスとも称された。

ドイツが1939年、日本41年、WWⅡ突入で、米国自動車会社は兵器生産に転換し、民需用乗用車を生産中止したが、名門パッカードもその例にもれなかった。
米国の各社は、ジープやトラック、戦車、装甲車、航空&船舶発動機など得意分野ばかりか、大砲から機関銃、果ては爆撃機まで大量生産したのである。

かたわら宣伝活動では、45年の終戦迄は戦意高揚目的のプロパガンダ的宣伝広告で貢献した。下の写真のパッカード社の広告もその一例である。

1942年生産中止最後のパッカード・クラブセダン・クリッパー180型とP51戦闘機。

ポスター上半分は、大戦末期に登場し、WWⅡ中の最優秀戦闘機と称された、ノースアメリカンP51ムスタングである。
下半分のパッカードは戦前最後生産のクラブセダン・クリッパー180のようだ。WB3176㎜もあり自慢のストレイトエイトは5696cc/165馬力、4010ドルもする高級車だった。

P51は、日本本土に近い硫黄島が陥落した頃から、B29爆撃機の護衛で飛来するようになり、当時を知る我々には憎っくき戦闘機なのである。

P51の開発目標は打倒ゼロ戦。アリューシャンに不時着のゼロ戦を収容、米国で分解修復・模擬空戦と徹底研究し多くを学習した。
で、生まれたP51は、360度視界良好防滴型キャノピーや航続距離を飛躍的に伸ばす落下燃料タンクなど、日本の知恵が盛りだくさんだった。もちろん空戦性能も研究し尽くされていた。

それまでの欧米戦闘機は100海里=180㎞先の敵地で30分戦闘し帰還するがコンセプトだった。で、独メッサーシュミットもロンドンまでは無理で裸の独戦略爆機隊は壊滅したのだ。
一方のゼロ戦は、台湾から1000㎞のマニラに爆撃機を護衛、戦闘し帰還という対照的性能差だった。で米軍の常識で空襲後近海に日本空母がいると、血眼こで探したと云われている。

P51の発動気マーリンV型12気筒1490馬力はロールスロイス開発だけに、量産するには高い工作精度が要求され、そこで白羽の矢が立てられたのが、髙品質信条のパッカードだった。

さて自動車屋の戦意高揚広告はパッカードばかりでなく、各社同様{戦争で車は造れないが我慢を}…貴方の車は頑丈でアフターサービスも万全・勝利の日まで大切にお乗り下さいと訴えていた。

1930年代ハリウッドのセックスシンボルと称され26才の若さで逝った名優ジーン・ハーローと1932年型パッカードDXエイト903スポーツフェートン。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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