トヨタ2000GT開発の狙い

コラム・特集 車屋四六

トヨタ2000GTの開発目標は、儲かる車造りではなかった。
目の上のタンコブだった日産との戦いに目処が立ち、次ぎなる目標は車では上から目線の自動車先進国に「トヨタここにあり」をアピールする作戦だったように思う。

で、58台が米国に、115台が世界20ヶ国に。全生産台数337台だから今では{幻のスポーツカー}ともてはやされ、1960年代の名車と話題豊富な車でもある。

先ず、谷田部高速周回路で13の世界速度記録を塗り替え、人気映画007のボンドカーに、などで世界にその存在を示した。
65年第12回東京モーターショーでは、突如車の側にツイッギーが立ち会場騒然となった。彼女は、世界のミニスカートブームに火を点けた英国の超人気モデルだったからだ。

話題をさらったショーの次は、日本グランプリ。もっとも日本GPの話題は、プリンスR380 vs 滝進太郎のポルシェカレラ6で、二台を参加させたトヨタに勝つ意志はなかったはずだ。

日本GPスタート直前のトヨタ2000GT。

66年5月連休のGPレースは、魔の30度バンクを含むフルコース60周=360㎞。結果は、滝進のカレラ6のクラッシュで、R380砂子義一が優勝して、前回のポルシェに受けた屈辱を晴らした。

が、勝ちを予測しないトヨタに{あわよくば}が転がり込んだ。
観客はともかく、専門家の予測は「トヨタが勝つのは無理」だったが、終盤に細谷四方洋の2000GTがなんと二位でゴールに向かっていたのだ。残念ながらゴール直前でR380大石秀夫に抜かれたが、耐久レース向き2000GTの三位入賞は大金星だった。

そしてGP以後の耐久レースでの活躍が始まる。一ヶ月後、私がJAF派遣審査委員長だった鈴鹿1000㎞では、福沢幸雄/津々見友彦コンビが優勝。67年3月鈴鹿500㎞優勝/鮒子田寛。4月富士24時間と7月富士1000㎞優勝/共に細谷/大坪。10月鈴鹿1000㎞二位/細谷/三崎。68年4月第8回クラブマンレース優勝。6月富士チャンピオンレース優勝。11月富士スピードウエイフェスティバル優勝と、勝ちまくって引退した。

谷田部周回路を疾走する2000GT:1966年10月1日~4日(6・12・24・48・72時間)(1000・2000・5000・1万マイル)(2000・5000・1万・1.5万㎞)13カテゴリーで世界記録を更新した。

海外ではSCCAシリーズ戦で、年間一位&二位ポルシェ911、三位トライアンフに続き四位獲得。「なんだ四位か」などとは失礼。後進国日本の車が、自動車市場世界一の米国で存在を示したのだ。

余談だが、GT登場の66年、JAFスポーツ委員を務められ、私達が世話になった鷹司平道元侯爵が銀座イサベルのママの千駄ヶ谷マンションでガス中毒死という悲しい出来事があり、67年日本GP公式プログラムに鷹司さんの名が発見出来ないのが残念だった。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

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