タダで貰ったB級ライセンス

コラム・特集 車屋四六

東京麻布の住人なのに、私の愛車ホンダS600は多摩ナンバー。
その理由は、発売直後で東京方面の配車間に合わず、立川ホンダSF扱いだったから…いうなれば内緒の越境販売だったのだ。

ロンドンにミニスカート登場、平凡パンチ創刊で日本男子が喜んだ1964年にホンダS600は誕生/50.9万円、大卒初任給2万円の頃だった。写真はSCCJ/日本スポーツカークラブ恒例の伊豆長岡ヒルクライムのゴール頂上付近だ。

当日GT-Gクラスで優勝した話はさておき、当時の自動車スポーツ界がいい加減だった内緒話を一つ。実は入るつもりもなかった、というよりは存在すら知らなかったJAFに、棚ぼたで入会する羽目になった話である。

当日朝早く現地到着…手慣れた直前準備を始めると、紺の背広にネクタイ姿の男が二人「JAF公認競技になったのでB級ライセンスが必要」と云う…「B級ライセンスって何だ?」JAFを知らない連中も多く「駄目なら仕方がない・少々早いが三島で芸者でも…」と話がまとまると、背広姿があわてて「貴方がたはベテランだからB級あげます」…が、JAF入会が必要条件だという。
JAF旗揚げ後ようやく1年、会員集めに苦労していたようで、Bライセンスのオマケ付で入会した私の会員番号は9125番目だった。

当日の顔ぶれは、後にサーキットの猛者になる連中がかなり居た。
生沢徹、津々見友彦、佃公彦/漫画家、中村正三郎/後年代議士、富士のバンクに散った永井賢一/いすゞF、鈴木誠一/日産F、大坪善男/トヨタF、小関典幸/スバルFなど(F=ファクトリー)

優勝トロフィーを抱えてご満悦の筆者

御存知ホンダS600は直四DOHC四連装キャブ・57馬力/8500回転・一鞭で145㎞という、世界を驚かせたスポーツカーだが、力不足で消えたS500/49.5万円が一年前に登場している。

S500は日本初のDOHCエンジンでホンダ初の登録車だった。
62年の第9回全日本自動車ショーには、9000回転で33馬力というS360が展示されていたが、残念ながら発売されなかった。

このSシリーズ開発を主導したのは、後にF1監督として世界に名を轟かす中村良夫。彼は42年帝大工学部航空学科卒後、中島飛行機でターボや日本初ジェットを開発した飛行機屋である。

敗戦で職を失い、オート三輪「くろがね」を経て、トヨタに決まった就職を蹴ってホンダに就職した。彼は技術者として頑固一徹、がホンダの親分も頑固一徹で、二人はよく衝突したようだ。

S600は駆動構造が独特だった。デフを固定し、中空トレーリングアームの中のチェーンで後輪を駆動するという本田社長の構想。
中村は振動と重量増加で猛反対したが「俺はオートバイ屋だ」と自信と誇りを持つ社長の一声で採用が決まったという。

結果は、発進時にピョコンと尻を持ち上げる独特な挙動をするようになったが、馴れてしまえば、楽しいスポーツカーだった。
が、やがて登場する、レースに勝つために登場したS800では、オーソドックスなFR構造に改められていた。

筆者の競技用A級ライセンス。タタで貰ったB級の後A級昇格講習会の船橋サーキットでは仲間の池田英三が講師「英チャンに審査されるの」「いいから一回りしてこいよ」と云われてA級昇格。

 

車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。

Tagged