両手両足の指では足りないほど林立していた米国の乗用車会社も淘汰の波に呑まれて、ビッグスリーに集約されて久しいが、2008年のリーマンショックでは、ご多分に洩れずフォードも不況に。
そんなフォードもWWⅡ直後の元気は素晴らしく、もちろん戦中も米軍を支える活躍は目を見張るほどだった。ジープの生産量は本家のウイリス社より多量で、他に水陸両用車・戦車・トラック・機関砲・航空発動機・輸送用グライダー・極めつけの爆撃機まで、多種多彩な兵器を造り、米国の戦勝に貢献したのである。
昭和17年頃、日本は連戦連勝の報道に湧いていたが、突然の空襲に驚いた。それは連敗で暗い米国内ムードを吹き飛ばそうと考えた奇策で、ムードは一気に好転、奇策は成功した。
常識では考えつかない大型陸上爆撃機の空母発進→空襲後は同盟中華民国支配地域の支那に着陸という奇策だった。その13機のノースアメリカンB25双発爆撃機は、フォードで大量生産されていた。
昭和18年以降も連戦連勝報道が続くが、敗戦後ガセ報道と判った。昭和20年/1945年終戦で、当時の流行語はピカドン。8月6日広島、9日長崎に落ちた原爆だが、まだ原子爆弾の名はなく、報道は新型爆弾と報じ、巷ではピカドンと呼んでいた。
44年サイパン島テニアン島陥落で「危ないんじゃないか」と子供心に思いを口を滑らせたのが同級生の告げ口で、先生に「前にでろ股ひらけ歯を食いしばれ」で疎開児童60名ほどの面前で往復ビンタを食らう。その後は「非国民」と呼ばれたが、翌年夏の敗戦で「俺は先見の明がある」と自画自賛した。
両島陥落で発進可能になった大型B29四発爆撃機で、全国が火の海になるが、日本は追い詰められてもラジオは{本土決戦}とわめき、新聞は{鬼畜米英}、映画館では{勝利の日まで/東宝}と相変わらずの戦意高揚が続くが、アニメ{海の神兵}は傑作だった。
35年3月硫黄島陥落で、爆撃機にP51戦闘機の護衛が付くようになる。ピカドンで敗戦すると、一気に軍国主義から民主主義へと転換、戦後映画の初作品は上原謙・佐野周二主演{そよ風}で主題歌の{リンゴの唄}ヒットで並木路子が一躍スターに。
さて話を本題に戻そう…4月ヒトラー総統自殺でドイツ敗戦、8月日本降伏で米自動車産業は生産再開する。戦争始まれば即戦時体制、万単位で大砲や飛行機など兵器続々。毎日1万トン級輸送船を三隻も進水させる国相手に日本はよく喧嘩を売ったものである。
「軍人は精神論で科学を忘れていた」は戦後の昭和天皇の反省。
フォードはWWⅡ開始で42年2月民需乗用車生産中止→戦後再開は中止時のプレス型だから戦後の新車は戦前型のまま。ちなみに戦時色塗装の軍用フォードも同じで後姿からダルマが通称だった。
8月終戦でフォードの一号車ラインオフは10月。さすが世界一の自動車王国は開戦・終戦での切替迅速。最初のスーパーDX・3.8ℓ V8・100馬力・3MTの搬入先はホワイトハウス…写真の笑顔のオジサンはトルーマン大統領、黒服はフォード二世、ということは戦後初の記念すべき一号車は献上されたのである。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。