「ドイツで生まれた車はフランスが育てた」はフランス人の誇りだ。自動車誕生で19世紀末から20世紀にかけ、製造会社創業が相次いだ。だから1919年/大正8年に一号車登場というシトロエンは、欧州では老舗ではない。
パリのモンマルトルと云えば有名観光スポットだが、其処にそびえるサクレクール寺院の誕生が19年だから、シトロエンと同い年ということになる。ちなみに寺院完成時「中世建築のまがい物」「パリの美観を損ねる」と酷評されたことを知る人は少ない。
多くの創業者と異なり、シトロエンは技術屋ではない。図面を引いたことが無いとさえ云われているが、経営に関しては非凡で、安価に高品質を提供という信念を貫いた人物だった。
■シトロエンの出発点「シェブロンギア」(傘歯歯車)
著名な前輪駆動=トラクションアバン登場は34年だが、そのグリルを飾る山形の線二本…こいつはシトロエンが経営者として世に出る切っ掛けになった、シェブロンギア=傘歯歯車がモデル。
左前の親戚の工場を引き継いだシトロエンが売りだした傘歯歯車は、伝達効率が高く低騒音で人気が出て、引っぱり凧で売上げ上昇、これが経営者シトロエンの出発点だった。
定説では二本線がグリルを飾ったのは34年生まれのFF・11CVと云われているが、登場はその一年前のFRだったとパリで聞いた。
話し戻って、19年生まれの一号車の構造は標準的なFRだったが「フランス初のマスプロ」と自慢の流れ作業で生産された。
シトロエンはH・フォードの信奉者で、T型フォードのフランス版を目論んでいたが、自動車で実行する前に、既に実験済みだった。
1915年開始のWWⅠ中、仏軍の弾丸不足に気が付いたシトロエンは「私に工場があれば1日5万発を供給する」と売り込んだ。で、頭痛鉢巻き困惑中の仏軍は、なんと奇想天外馬鹿げた提案にのり、パリのジャベル運河畔に工場を建設し、彼に渡した。
この仏軍の{駄目もと}的博打は見事に金星で、仏軍が撃つ砲弾量が一挙に10倍になった。もちろんこの工場が斬新なコンベアーシステムだったのは勿論である。
さて、19年誕生のタイプA型は、マスプロ製造過程だけでなく、開発段階でも仏初の斬新手法がとられた。それまで車造りは、シャシー・エンジンを含む全てを一人の技術屋がこなしていたが、シトロエンでは開発チーフの指揮下で、複数の部下が各部を分担開発という、現在と同じ手法をとったのである。
タイプAの発売価格は1.1万フランだったが、翌20年には7500フランに下がるのは正に量産効果の御利益で、こいつはフォードTの値下がりカーブと同じような道をたどったのである。
が、19年の値段でさえ、同グレードのフランス他車の半値ほどだったそうだ。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。