自動車では後進国扱いだった日本生まれなのに、海外で有名になったブランドがウルトラ。その源流は、昭和29年東京大田区で創業した永井自動車だが、当初は用品開発メーカーではなかった。
英オースチンの輸入元・日進自動車と契約した販売業で、昭和30年から用品販売も開始。次に磨り減ったブレーキライニングの張り替えも始める。
輸入台数は極小だったが、オースチンにはA90アトランティックやA40のスポーツカーがあった。が、1950年代の日本では、スポーツカーなら、MGが断トツ人気で、ジャガーXK-120、トライアンフなどが、我々羨望の的だった。
そんなスポーツカーのインパネに鎮座するタコメーター(回転計)に、新しがり屋は憧れたが後付け用品はなく、諦めるほかなかった。そこに目を付けたのが、永井龍男社長だった。
当時、外国製後付回転計は機械式でエンジンから回転を取り出す加工が必要で高額なのが難点。そこを電子で解決…昭和35年、東京芝琴平町に永井電子機器(株)が設立され発売された。
ウルトラの取り付けは、ほぼ配線だけで簡単が利点だった。
同時に商品名ウルトラも誕生…ネーミングの動機は、スーパーの上はウルトラということだった。それから暫くすると、ウルトラのブランド名は世界で通用するようになる。
私の愛車ジャガーやトライアンフは当然回転計装備だったが、ビュイックやクライスラーには取り付けてドライブを楽しんだ。
一方、ウルトラは日本より欧州で有名になり、回転計の代名詞的存在にまで成長する。ドイツの通販カタログで人気を得たのが発端だった。
回転計で成功した勢いにのり、昭和38年に発売したのがトランジスタ・イグニション。それを装備した日野コンテッサが第一回日本グランプリで優勝して、またまた時流の波に乗るのである。
その仕掛けは、ポイント焼損、高回転で電圧降下という既存の方式を飛躍的に改善、トランジスタで出力増幅するのだが、次作のポイントがないフルトランジスタ型の完成で完璧となった。
いずれにしてもモータースポーツの必需品となり、排ガス対策にはCO2やHCの低減、石油ショックでは燃費向上と、人気上昇に追い風を受けたのはラッキーだった。
昭和50年からセミトラ、55年からはフルトラが一部の市販車に組み込まれて一般需要が減るが、以後も数多くの電子機器を開発し続けている。
注目すべきは、永井電子はアフターマーケット用品開発に徹していること。原因はGP優勝のあと、メーカーの問い合わせに応じると、それで終わり。仕掛けが判れば自社で造ってしまう…それに懲りて、以後、メーカー相手の商売を辞めてしまったのである。
そして、常にメーカーの一歩・二歩先を見つめて、開発を先行させる姿勢を変えない素晴らしい会社として生き続けているのだ。
車屋四六:1960年頃よりモーターマガジン誌で執筆開始。若年時代は試乗記、近頃は昔の車や飛行機など古道具屋的支離滅裂記事の作者。車、飛行機、その他諸々古い写真と資料多数あり。趣味はゴルフと時計。<資格>元JAFスポーツ資格審査委員・公認審判員計時一級・A級ライセンス・自家用操縦士・小型船舶一級・潜水士等。著書「進駐軍時代と車たち」「懐かしの車アルバム」等々。