【車屋四六】ダイハツ生誕100年-⑥

コラム・特集 車屋四六

二輪、三輪、どちらも成功すれば四輪製造、という構図は古今東西何処も一緒。マツダ、三菱、ホンダ、ダイハツのように。戦後100社以上も生まれた日本の二輪市場で、いまでも二輪に専念しているのは、ヤマハとカワサキだけになってしまった。

さて昭和30年貨物車市場で占有率80%を越えたオート三輪は、32年59%、33年に四輪とシェア逆転して、ダイハツも二屯積み四輪ベスタを開発投入。好評ミゼットの方も、昭和35年ハイゼット・ピックアップで四輪への転身をはかり、半年後には乗用車にも使えるバンを追加した。(トップ写真:三輪ミゼットの後継として昭和39年に登場したハイゼット軽貨物自動車。ダイハツはこれで四輪車市場に登場する)

そして昭和41年/1966年、本格的軽自動車フェローが誕生する。丁度法改正で軽の最高速度制限が40➚60粁に、車庫証明制度実施時期で、フェローは水冷二気筒2サイクル23馬力を開発搭載した。

昭和41年市販開始の軽乗用車フェロー

66年という年はダイハツには記念すべき年でもあった。地域貢献が認められ、本社所在地の神田町が{ダイハツ町}に変更された。愛知県挙母市が、豊田市トヨタ町変更に続く快挙と云えよう。

が、ダイハツ初の四輪乗用車はフェローではない、昭和36年、軽じゃない登録車のコンパーノがダイハツ初の乗用車だった。
ダイハツの四輪市場参入は慎重で、先ずリスクが少ない商用車部門で様子を見る、こいつはマツダのファミリア800がバンからセダンへという手法と同じである。

コンパーノバンのお目見えは、昭和37年第9回全日本自動車ショーで、際立つ美しさで注目を浴びた。それは、伊カロッツェリア界の大御所、ビニヤーレのスタジオで生まれたものだった。

コンパーノバンは昭和37年3月に発売されたが、6月になると待望の乗用車コンパーノワゴンを投入、ようやく39年に真打ち登場とばかりに、セダンのコンパーノ800ベルリーナが登場した。

当時の乗用車試乗は、軽自動車の上は1.2ℓクラスだったから、この800ccクラスというのは、ミゼットの成功で味を占めたニッチ領域だったのである。

昭和39年は、東京オリンピック開催の年で、ギリシャから東京まで約8000㎞に及ぶ聖火リレーが話題を呼んだが、コンパーノはアジアの過酷な道路を走破して、その存在をアピールしたのである。

東京オリンピック聖火リレー伴走車:1万8000kmを走破したコンパーノベルリーナ/ダイハツ記念館蔵

ダイハが開拓した800ccクラスは、翌年からマツダ、三菱コルト、スズキフロンテと続いて重視、充実し、1000ccクラス登場の引き金となったのである。

コンパーノベルリーナは、我が国から先進国英国へ初輸出された乗用車だが、ちなみにコンパーノとは伊語で仲間、またダイハツ初の軽自動車フェローは英語で仲間、はからずも同義語だった。

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