1945年/昭和20年5月ドイツ降参、8月日本降参で第二次世界大戦は終わった。兵器生産に従事したドイツの自動車工場のほとんどは爆撃され、オペルの工場も瓦礫の山と化していた。
そんなオペルの戦後は、生き残り従業員の瓦礫片付けから始まった。暫くして、占領軍が部品生産と修理を許可して、オペルの再建がスタートしたのである。
次いで46年、小型車生産も許可されるが、残念ながら疲弊したドイツに最適な大衆車カデットはソ連領域あったから、工場まるごと50輛の貨車でモスクワに運び出されていた。
やがてモスクワ生まれのカデットが、モスクワッ子{モスクビッチ}の名で発売され、一部が欧州にダンピング輸出されて外貨を稼いだ。で、その時の有名な宣伝文句が{部品はオペルの販売店で買えるから安心}…モスクビッチは59年まで生産された。
荒廃したドイツ自動車工業の復活は、ひょんなことから早まった。
米国は、戦後のドイツを純農業国に戻す方針だったが、世界情勢の急変により、工業国としての再建を決断したからだった。
で、オペルの復活は20台のオリンピアを出荷した47年12月に始まった。もちろん戦前型で、次いで中型のカピタンも再登場。
元々オペルはGM子会社だからナチに嫌われて手を引いたGMだが、49年に本格的経営を再開。で、果が現れたのが53年で、オリンピア、カピタンがフルモデルチェンジする。
登場した両車は目を見張る斬新さ、それは戦後世界をリードしたアメリカンスタイル…それまで常識の泥よけ的フェンダーが消えたフラッシュサイド、人々はそれをポンツーン型と呼んだ。インテリア、特にインパネ周りもアメリカンの洪水だった。
オリンピアの名はベルリンオリンピックにちなみ生まれた。それを継いだ新オリンピアはレコルトの名で世界に輸出されて人気者に。日本でも英語読みレコードの名で、英車を凌ぐ人気者になる。
一方、カピタンは、レコルトより数ヶ月遅れて登場するが、姿も人気レコルトを一回り大きくしたポンツーン型で、大柄になった分、貫禄がつき高級感が備わった。
全長4710x全幅1760㎜。車重1250kg・直六OHV・2.5ℓ68馬力・3MTがアメリカ流コラムシフトで最高速度140㎞だった。
が、疲弊経済の日本でカピタンは値段高過ぎで高嶺の花、人気はレコードに集中した。当時日本では大型は米国車、小型は英国車で棲み分けていたが、オペルレコードと独フォードタウヌスだけは、英車を凌ぐ人気、プレミアム付で入荷即完売という状態が続いた。
こうして日本市場で一世風靡のオペルは、輸入元の東邦モーターズが販売拠点を赤坂から明治通りに移してから、徐々に人気が低下、人々から忘れられる存在になったのが惜しまれる。