【車屋四六】豪華版メルセデス・ベンツ300登場

コラム・特集 車屋四六

第二次世界大戦=WWⅡが終わってほぼ10年が経った頃の日本が外貨不足で、外国車の輸入禁止だったことについては、前にふれた。新車を買えるのは、駐留軍人軍属とその家族、在日外交官や日本に居住権のある外国人、いわゆる第三国人達だった。

で、彼等が2年間使ったら日本人が買える。いわば日本人にとっての新車は、まる2年を使用して3年目に入った中古車ということ。そんな車の中で、日本の財界トップ経営者、大臣高級官僚達の最高人気がキャデラックだったことも紹介した。

ところがだ、ふと気がついたらキャデラックの人気を追い越して、100万円ほども高値で取引され、ステイタス度ではトップに躍り出ていたのがベンツ300だった。

取引は800万円前後で推移していた。ちなみに輸入禁止になる直前、輸入業者ヤナセでの店頭価格はキャデラックと横並びの350万円だったのに、まる2年後に800万円、しかも中古車なのに。

さて、WWⅡ中のダイムラーはドイツ軍需産業の主力だから、連合軍の猛爆で工場は壊滅的打撃を受けた。そんな廃墟を工員や役員区別無く力を合わせて片付け、瓦礫の中から使える機械を探し、修理で工場を再開した。

そして終戦の翌年、46年には早くも乗用車生産を再開。そのベンツ170Vが戦前型だったのは戦勝国と同じである。こうして戦後の再建は着々と進んでいった。

やがてダイムラーベンツは、満を持して51年開催のフランクフルト自動車ショーに戦後の新型車を登場させる。展示ブースには誰もが目を見張る豪華なメルセデス300が鎮座していた。

比較するのもおかしな話だが、同年日本に登場の新型車と云えば、トヨペットスーパー、ダイハツ三輪乗用車ビー、ノックダウン車の三菱ヘンリーJなど。もっとも、日本から木炭車が消えたのも同じ年だったから、日本のレベルは推して知るべしだった。

300の諸元は、全長4950㎜、全幅1838㎜、ホイールベース3050㎜。堂々たるフルサイズカーだが、車重1770kgは、さすがドイツの技術、意外に軽量と感心したものである。

が、敗戦国ということもあり、短期間で大排気量エンジンの開発は無理だったようで、ズー体からは不似合いな3Lエンジンに不安を感じた。直六OHC、正確には2996cc、ソレックススキャブレターを二連装しても115馬力でしかなかった。

が「何だ115馬力」と馬鹿にする必要はなかった。M168型エンジンに一鞭あてれば、最高速度は160㎞に到達する。ゼロ400加速でも18秒台というのだから、やはりベンツは凄いと思った。

300型カブリオレは閉めればセダンと変わらぬ内装で寒暖差に強くオープン時には各国首脳のパレードなどに愛用された。折りたたまれたランドージョイントが見える

私の工場に修理に来たエンジンを整備したときに見ると、常識ではシリンダーブロック上面は水平なのに、こいつは30度ほど傾斜しおり、ピストン頂部もそれに合わせて盛り上がり、OHCなのにブロック側面にスパークプラグがネジ込まれていた。

戦後の新作300セダン(ドイツ語でリムジーネ)は評判も良く、54年には300B(135馬力)に進化、更に300C登場時には自動変速機も搭載する。

日本では天皇家も購入、ローマ法王をはじめ、王侯貴族、各国大統領元首の公式乗用車として活躍、金持ち有名人、大物芸能人などにも愛されたのである。

57年のフルモデルチェンジでは、アメリカの流行に習いハードトップに進化する。それは生半可なものではなく、四枚のガラスばかりでなく、三角窓だけ残して、あとは両サイド素通しになるという徹底したものだった。

同時に、カブリオレは引退するが、セダンは更に発展を続けエンジン出力も向上する。が、続きはまたの機会に。

300が登場した51年は昭和26年。戦後6年が経ったが日本経済は、まだ貧乏丸出しで、国民一丸となって復興に立ち向かっていた。NHKの第一、第二放送だけの放送も、民間放送解禁で六局が誕生、TVの実験放送も始まった。

で、CM放送も始まり日本にPR時代の幕が開く。NHKではラジオ体操復活、大晦日の紅白歌合戦登場。食料配給公団が廃止されても食べ物が豊かになるわけではない、そんな時代だった。

二代目300はアメリカで流行のハードトップに進化するが三角窓以外は片側6枚の全ガラスが開放されて―柱無しが大きな特徴だった