【車屋四六】キャデラック1956年

コラム・特集 車屋四六

写真トップは1956年型キャデラック。撮影は94年。バスでLA郊外のフリーウエイを走行中、懐かしさのあまり併走中を撮ったもの。

昔、藤沢の台地に戦争中からの飛行場があり、50年代、日本グライダー倶楽部が訓練をしていた。その倶楽部員に米空軍大尉が居て、彼の愛車が同じ色のキャデラックだった。

そのころ外貨不足の日本では新車の輸入禁止時代で、外国人が2年使用後、通関登録することができた。彼も3年目になると「日本人の買い手を探して」ということで、売れるまでの1ヶ月間ほどを乗っていたことがあるのだ。

ロスの車は、40年近い年月をタイムスリップしたかのように新品同様ピカピカ。真っ白なホワイトサイドウオールタイヤ、ラジオのオートアンテナも純正のまま。で、思わずシャターを押したのだ。

この時代のキャデラックは、既にパワーステアリング、パワーウインドー、パワーシートを装備、エアコン装備比率も高かったから、今でも何不自由なく使えるはずだ。

この車が生まれる前年の昭和30年=55年頃は、日本製乗用車がようやく一人前になった頃だった。観音開きのクラウン、ダットサン110、スズライトSS、日産オースチンA50などが登場したが、そんな車達もキャデラックとでは雲泥の差を感じる。

56年は、自動車免許制度改正で二種免許や大型免許が登場。米車に乗るために取得した私の大型免許が自動的に大型バスやトラックも運転可能な新大型免許になり、しかも営業も出来る二種免許に資格向上して「儲かった」と仲間達と喜んだ。それまでは1500cc以下の運転なら小型免許、それ以上なら大型免許が必要で、私が受けた鮫洲試験場では30年代のシボレー・四ドアフェートンが大型用試験車として使われていた。

キャデラックはアメリカ人には特別な車らしかった。仕事に成功して懐が豊になると欲しがるのがキャデラックと、その頃聞いた。事業に成功すればキャデラックリムジン。そして人種差別もあり黒人には売らなかったそうだ。

一部の金持ちは、ロールスロイスやベントレイ、ベンツなども購入したが、一般的に最高級はキャデラック。キャデラックはステイタス性ではトップブランドで、米国在外大使館の公用車はもちろん、各国の大使達も好んで乗っていた。

ローマで与謝野秀駐イタリー大使が、ホテルを訪ねてくれたときもキャデラックだったが、当時の懐乏しい私の泊まるホテルは二流だから、支配人がアワ食って「貴方の客か」と跳んできた。

翌日からホテルの待遇が一変したのが愉快だった。食堂で私が手を挙げてもアメリカ人客優先だったのが、翌日からはアメリカ人客無視で、私のところに来るようになった。

WWⅡが終わってほぼ10年が過ぎ、戦勝国アメリカが富み栄えた絶頂期。そこで造られる乗用車は大衆車のシボレーやフォードでさえ長大で貫禄十分、高品質で仕上げも上々、まして高級車ともなれば非の打ち所がなかった。

既に、大排気量・大馬力競争時代に突入しており、写真トップのキャデラックは廉価版の62シリーズでも、V型8気筒OHVは、ボア100㎜xストローク90㎜で5840cc、圧縮比9.7で285hp/4600rpmという高い出力とトルクを誇っていた。

併走する中年婦人のキャデラックがフリーウエイを離れる直前。長大なボディーは貫禄があった

ホイールベース3225㎜で全長5372㎜という長く大きな乗用車だった。私が預かった62シリーズのセダンドビル4ドアセダンは、米国で4550ドルだった。

当時の為替レート1ドル=360円で換算すれば164万円で、安いと思うかもしれないが、二年落ち三年目の日本的新車?になると、どう転んでも600万円前後は必要だった。

ベトナム戦争の泥沼に足を突っ込む前の裕福なアメリカは、そんな高価高級なキャデラックを、なんと年間12万8429台という、驚くべき生産量だったのである。

そんな56年頃の日本といえば、戦後11年目で国連加盟。経済白書が「戦後は終わった」と宣言。家庭では電化ブーム。映画は最上の大衆娯楽で映画館の新築ラッシュだった。電化完了で東海道線から蒸気機関車が消えて喜んだ反面、売春禁止法施行で遊郭が消えて、一部の男どもが悲しんだ。

50年代初頭テールフィンが付いてから左側テイルランプの丸い反射鏡を押すと給油孔が開くのがキャデラックの特徴だった