愛知機械工業(株)など云っても知らない人ばかりになった。手元の古い名簿では、本社所在地:名古屋市熱田区一番町六丁目一番地・電話:名古屋六六局一一一一番。東京出張所:中央区銀座四丁目五番地とある。
愛知機械は昭和30年代、軽自動車コニーのメーカーだった。今でこそ軽自動車といえば、スズキ、ダイハツ、ホンダ、三菱だが、かつてはスバルやマツダも元気、そしてコニー、またホープ自動車のホープ、東急くろがねのくろがねベビーなども市場を賑わしていた。
もっともコニー活躍の時代、ホンダは未だT360トラックしかなく、軽乗用車は、コニーとマツダのキャロル&R360クーペ、スズライトキャリーなどだった。
軽の乗用車ではなく、商用ワンボックスの最初はスバルサンバーで、業界二番手がコニーだったと記憶する。もっともこの時代ワンボックスという呼称はなく、サンバーはライトバンで、コニーはワイドバンだった。
紹介するコニーの写真、どちらもコニーとしては最新モデル、ということは最終モデルだと思う。私の手元の資料は昭和38年のもの。其処からの主要諸元を紹介しておく。無責任だが、写真の車のものかどうかは判らない。全長2995㎜、全幅1300㎜、ホイールベース1970㎜。車重565kg。
AF58B型エンジン:強制空冷四サイクル、二気筒、354cc、圧縮比7.5、18.6hp/5500rpm、2.8kg-m/4000rpm。燃費27km/L。回転半径4.5米。定員4名+貨物積載量200kg(2名時300kg)、変速機:前進三速シンクロメッシュ。最高速度75km/h。価格:34.5万円。
“トラックとして要求される”頑丈さ“と”乗用車“の乗り心地が見事に結ばれた「万能車」と自賛している。ワンタッチで広い荷台になる後部折りたたみの座敷は特に便利、ともある。
デラックスと呼ぶ贅沢仕様は、当時アメ車の影響で乗用車では憧れのホワイトサイドウォール・タイヤを履き、バックアップランプ、さらに後席にはレースのカーテンが付いて36万円だった。
そもそも愛知機械の前身は愛知航空機。その前は愛知時計。この会社、創業明治26年(1893)の老舗。社名通り時計製造で、知られたところでは早稲田大学大隈講堂の時計塔などが現存する。
大正20年、時計屋が飛行機製造を始める。もっとも昭和7年販売には至らなかったがアツタ号と呼ぶ乗用車の試作にも成功しているが、飛行機部門は順調で海軍御用達となり“艦爆の愛知”と呼ばれるようになる。
その艦上爆撃機では九九艦爆が知られるが、特に有名は敵戦闘機の追尾を振り切った艦爆彗星。550km/h超えの速度、3800㎞という航続距離、そして有名なエンジン搭載で知られる。
アツタと呼ばれるエンジンは、戦闘機メッサーシュミットの活躍で有名なダイムラー製DB601のライセンス生産だった。
好調愛知航空機は、戦中の43年に時計屋から分離独立するが、終戦で自動車屋に転身、52年、愛知機械工業を名乗るようになる。そして59年コニー販売開始。61年にはユニークな二座席グッピーを開発販売するも、不評で1年で生産中止。
62年自動車部門不振で日産と提携、70年にはサニートラックの生産開始と交代するように、コニーの生産終了。
もっとも日産の提携→買収は、自動車生産の目的はなく部品生産。が、コニーの販売店はチェリー販売店として継続、チェリーが三代目でパルサーになっても販売を継続。この日産チェリー店は、日産とプリンス合併で旧プリンス系列に入り、日産レッドステージに所属する。
コニーは、スバル同様、元飛行機屋らしく、当時のレベルでは良く作り込まれた車だった。