ステーションワゴン(以下ワゴン)という車は何故か日本では不人気で、バブルが膨らんだ頃には見捨てられた存在になっていた。やがてバブルが弾けて乗用車販売が落ち込んだが、RVは元気だった。そのお陰か、ワゴンの存在感が徐々に育ち始めた。(トップ写真:ラスベガスの自動車博物館で見つけたクライスラー・タウン&カントリー。持ち主は西部の牧場主だろうか、これ見よがしの牛の角付き頭部)
そのワゴンのボディーは、他の乗用車と同じようにスチール製である。が、その昔、ワゴンという車のボディーは、木骨ベニヤ張りというのが常識だった。
出始めた頃のワゴンは、セダンの後半部を切って延長し、その部分は木で造る方が簡単とは誰でもうなずける理由である。ワゴンの源流アメリカでなく、欧州でも同じ手法だからだ。
世界中に愛された、ミニのワゴンもその手法で造られていた。WWⅡ以前にさかのぼれば、自動車は木骨の上に手叩き整形の鉄板を貼って作っていた。
第二次世界大戦後も、長い事この同じ手法で日本のトラックは造っていた。で、自動車メーカーが造るのは、梯子形シャシーの先端にエンジン、懸架装置にハンドルとタイヤを付けたところまで。その裸の車にミカン箱を縄で縛り付けて運転手が座り、街道を走ってボディー屋に回送する姿をたくさん見たものである。
さてワゴンのベニヤ板は耐水ベニヤで、木骨はスプルース材など。が、アメリカではウイスキー樽と同じオーク材が多く、アメリカ製ワゴンの木目が際立って美しかったのを憶えている。
近頃、高級車では伝統的に残っていたインテリアの木目が、木目が廃れていた大衆車で見直されているようだ。いずれにしても大量生産が進むにつれ、面白みが失われてくる中に、木目が見つかると何故かホッとするからだろう。自然回帰、人間の本能を刺激するからなのだろうか。
さて、30年代に大量生産するようになったアメリカ車にも同様な事例がある。プレスで量産されるエクステリアに疑問を持つユーザーのために、木を使うボディー造りが流行ったことがある。が、量産時代の手仕事復活だから、高級車か高級バージョン向けだったが。
そんな会社の中で、特に熱心、生産品目も多かったのがクライスラー。ワゴンのようなベニヤの上に木骨が露出した独特なボディーを造り人気を得た。
その良い例が、クライスラー・タウン&カントリーと呼ぶシリーズ。写真のフォードは、46~48年まで生産され、大衆車シボレーが1000ドルで買えた時代に販売価格は3000ドルと高額だった。
もっともステーションワゴンのボディー後半は、ベニヤと木骨だけで造られていたが、クライスラーばかりでなく、この手の乗用車は、各社スチールボディーをそのままに、その上に木骨を貼り付ける、言うなれば装飾モール的扱いだった。
いまの六本木ミッドタウンは、戦前は帝国陸軍第三連隊、戦後は進駐軍の米軍第八騎兵師団で、そこで初めてタウン&カントリーを見たとき「なんて美しい車なんだろう」と思ったものである。
いずれにしてもアメリカでは人気者になり、49年にはタウン&カントリー・コンバーチブルが登場するが、何と4600ドルという高額だったから、日本には来なかったようで、見たことはない。
さらに、50年になるとタウン&カントリー・ニューポートと名付けたツードア・ハードトップ4000ドルを登場させる。もちろんクライスラーばかりでなく、米国他社の木骨張り乗用車も人気だった。
ひと頃、ログハウスというのが流行ったが、あれも同じような感覚から好まれるようになったものだろう。
最初のタウン&カントリー誕生した頃の日本は、禁止されていた乗用車造りをGHQが解除して、戦前型そのままのダットサンDA型、たま電気自動車、トヨペットSAが登場した年である。
で、敗戦から二年目の日本は日本初のオンパレード。乗用車、そして赤い羽根募金、学校給食。日本ダービー復活、戦後初ファッションショー、タブロイド判新聞発行、ストリップショー初登場、そして最大関心事が新日本国憲法発布だった。