1928年生まれのコリン・チャップマン出世物語は耳にタコだろうし、私も何度も紹介しているので省かせていただくが、彼の出世作と云えばロータスセブンで良かろうが、日本ではロータスエランで知名度を稼いだ。
典型的バックヤードビルダーの彼のモットーは、自動車愛好家に安価高性能車を提供することだった。で、生まれた第一作がセブン。それはキットで販売し、組み立ては自分でという仕組み。
こいつは組み立て工賃の節約だけでなく、英税法を逆手に取って格安ロータスで競技参加が可能になるのである。もちろん裕福オーナーに完成車も用意されていた。
が、次なる作品は理想の車造り、最先端技術を惜しみなく注ぎ込み、性能を追求したせいで、本来安く手軽にスポーツを楽しむはずのライトウエイトスポーツカーではなくなっていた。
58年に発売開始されたロータスエリートは、一台売るごとに1000ポンドの損が出たという。
反省したチャップマンは、七つのパーツで組み立てるエリートのグラスファイバーボディーを止めて、ワンピースで仕上げる技術を完成、エンジンも高価なコベントリークライマックスから、フォードのをDOHCにしたロータスエランを完成した。値段はエリート2000ポンドvsエラン1499ポンドだった。
エリートが完成した頃、ロータスでは単座のレーシングマシーンを開発していた。で、57年に登場したのがロータスMK16、ロータス初のF1カーである。MK16は、名手スターリング・モスの操縦で優勝、グランプリ初勝利を手にした。
MK16はオーソドックスな前エンジン後輪駆動=FRだったが、次なるロータス25がF1の世界に新風を吹き込んだ。
62年登場のマシーンはミドシップで、グランプリで快進撃開始、伝統のインディ500も制覇、それでインディを含む、アメリカレース界もミドシップ型に変わっていくことになる。
ロータスは、ミドシップ型F1で得た技術ノウハウを市販車にフィードバックさせるスポーツカー開発を開始。66年に満を持して登場したのがロータスヨーロッパだった。
ヨーロッパは、早くも翌67年の東京モーターショーに登場するが、1070㎜という背の低さに、ほとんどの観客が溜息をつき驚き、長いこと立ち止まっている姿を憶えている。
コストダウンのために大量生産エンジンを使う手法は常識的だが、ご多分に洩れずロータスも同じで、ヨーロッパの心臓はルノー16の直四1470ccをチューンナップしたものだった。
あえてDOHCにせず、量産のOHVそのままだったのは、廉価仕上げ目的と共に、ヨーロッパ市場での豊富な部品、メンテナンスの簡易、そんな目的があったのだろう。
エンジン出力は82hp/6000rpmと非力ではあったが、グラスファイバーならではの613kgという軽量さで、最高速度185㎞をマークすることができた。当時として俊足で、加速も良好だった。
私の近辺では、SCCJ=日本スポーツカークラブの中村正三郎がオーナーだった。後に千葉から立候補して当選、衆議院議員になり、環境庁長官になる人物である。
ディスクブレーキによる安定した制動力、ミドシップらしい切れの良いハンドリングが絶品だったが、やはりモ少しパワーが欲しいと思う場面もあった。
当時は未だ谷田部がなかった。性能チェックは工業技術院の村山試験場の周回コース。そこで某有名専門誌が取材中、バンクから飛びだしてヨーロッパは大破したが、輸入業者が引き取り拒否。泣く泣く買い取ったという話が、我々同業者の間で広まった。