本田宗一郎は創意工夫では天才的人物。現在青山のホンダ本社は、各階1.5ⅿ幅のバルコニーで囲まれている。「地震で割れたガラスが歩行者を傷つける」の鶴の一声で決まったという。
東北大震災の大被害:担当役人、自治体の長、特に原発建設者に、爪の垢でも煎じて飲ませたいものである。
さて、WWⅡ終戦の翌年だから46年、浜松に産声あげた本田技術研究所が、47年に自転車に後付けする補助エンジンを売り出した。後に自転車屋に毛の生えたような会社は急成長、世界の二輪市場を制覇、レースの覇者になるなど、誰が想像しえただろうか。
いずれにしても二輪で成功すれば、次のステップは四輪市場進出が世の習い。ホンダも、この常識的街道を走り続けることになる。が、63年登場の四輪市場初進出作品は、常識破りだった。
オートバイから軽自動車というのは常識の範疇(はんちゅう)だが、乗用車じゃなくピックアップトラック。それも360ccでDOHCとくれば、誰もが驚くスペックである。後に高性能走りで“スポーツトラック”の異名も生まれる。
今でこそDOHCは普通のエンジンだが、当時は高級なスポーツカーやレーシングカー専用だから、一般には手が届かぬ高嶺の花だったのである。
少し時間を戻して62年の自動車ショーで、ホンダブースに可愛らしいスポーツカーが展示された。ホンダS360とS500。日本の規格では軽自動車。世界でも極小のスポーツカーに観客が注目した。
が、政府の方針で二輪メーカーに限定される恐れから、登録車市場への実績造り目的で急遽S500のみを発売したのが63年。実際には、取り越し苦労だったのだが。
62年は鈴鹿サーキット完成の年で、ホンダは「どうせ四輪に進出するなら世界制覇の二輪と共に四輪もモータースポーツのリーダーになろう」と決意したようである。
発売されたS500に対する市場ニーズは「も少しパワーを」ということで、64年にS600に進化する。で、エンジン出力が44馬力から57馬力へ、最高速度も130㎞から145㎞へと向上した。64年、私もパワーアップしたS600を購入して、ジムカーナやヒルクライムを楽しく走り回った。
前方向にボンネットを開くと、見ているだけで楽しくなるエンジンが現れる。丁寧に鋳上げたアルミ合金ブロックにツインカムのヘッド。側面に負圧でベンチュリー面積可変のCVキャブが四個並ぶ姿は、精密機械を眺める楽しさがあった。
十分に高性能を楽しめたS600だが、65年、S800に進化する。海外からの要望でとの説明だったが、本格化した国内レースで、トヨタS800に対する強化策でもあったようだ。日本での販売価格は69万円だった。基本はロードスターだが、ハードトップクーペも人気があった。
S800は僅か760kgという車重に対して70馬力。で、最高速度は160㎞=100マイルの大台に達し、ゼロ400m加速では16.9秒と、このクラスでは世界最速の足を得たのである。
写真トップは、昭和40年代前半、パリの街角で見かけたホンダS800。今は無きパナールのテールが前に。後方は二台のシトロエン2CV。
ホンダS600→S800は、鈴鹿、富士、船橋など、サーキットで活躍するが、この車を踏み台に多くのベテランが育っていった。生沢徹、鮒子田(ふしだ)寛、寺田陽次郎、永松邦臣、浮谷東次朗、田中弘、風戸裕、等々、やがて日本いや世界を股に掛ける連中である。