ボンネットバスが写る写真は、日比谷交差点と国電ガードの間。真新しいトヨペットマスター登場が昭和30年、日本交通のヒルマンが28年ということから、頃は30~31年頃と思われる。
ついでながらボンネットバスは民生ヂーゼルのよう。だとするとこの都営バスは、全長10m、座席30を含み64人乗り。水冷直四4941㏄150馬力で最高速度71㎞だった。
昭和30年頃の国民的娯楽の一つが映画鑑賞。で、老舗の日活映画は飛ぶ鳥落とす勢い。余勢を駆って建てたのが背景の日活国際ビル、当時としてはバタ臭いがアメリカンで斬新だった。
この通りは漢字が読めない進駐軍が日本中に勝手に付けた英語名でZアベニュー。(日比谷→銀座四丁目(尾張町)→築地)。ちなみに日比谷で交叉する大手町→日比谷→御成門→三田→横浜への幹線道路がAアベニュー。銀座通りは、単純にGINZAストリート。
いずれにしても、昭和20年代の日比谷、大手町、銀座界隈は進駐軍の巣窟。第一生命ビルは進駐軍総本山GHQ(連合軍最高司令部)。今の丸の内警察はMATS(米軍輸送飛行隊)。交差点の帝国生命ビル(後朝日生命)は米憲兵隊司令部。隣の三信ビルは米兵宿舎。宝塚劇場=アーニーパイル劇場。帝国ホテル=米将校用ホテルといった具合である。
写真は多くを物語る。手前のヒルマンはいすゞ自動車製で、日野ルノー、日産オースチンと共に、昭和28年登場のライセンス生産車。100%国産化により日本の自動車生産技術を国際レベルまで押し上げる功績を残した車達である。(写真トップ:モダンな日活ビル前を日比谷映画方向に右折のトヨペットマスター。いすゞヒルマンは日本交通タクシー。左奥にディーゼル・ボンネットバス)
ちなみにヒルマンは、1265ccサイドバルブ37.5馬力で最高速度は国産車に水を開ける104㎞。が、トヨタは純血主義を貫き提携せずに昭和30年にクラウンを開発。いずれにしても、この頃に日本乗用車が国際水準に達したことを我々は知った。
クラウンと並行開発、同時発売がトヨペットマスターだが、実はタクシー専用車。斬新な前輪ニーアクション、後輪三枚リーフ採用のクラウンを、タクシーに使われて悪評が立つのを怖れたトヨタは、トヨペットマスターで実績のある従来手法のリーフ型サスペンションで仕上げたのである。
が、トヨタの心配は取り越し苦労。クラウンで充分耐えることが判ると、すぐにマスターの生産を止めてしまった。が写真トップのマスターは、頑丈で選んだのか安くて選んだのか、自家用車だ。
両車共通のエンジンは斬新なOHVで1453cc48馬力。アメリカンスタイルのコラムシフトで、最高100km/hオーバーは、国際水準に達していた。
いずれにしても写真の昭和30年頃は、敗戦日本が独立独歩で歩き始める折り返し点だったと思う。日米講和条約の後、徐々に米兵や施設が減り、国産自動車も一人前に、生活も落ち着き始め、物も出始めて、日本経済は上昇機運に乗り始めていた。
外国三車ノックダウン開始の昭和28年にTV放送開始。高価な受信機に無縁な庶民はもっぱら街頭テレビ。ラジオドラマ”君の名は”の大ヒットで放送開始の四時には銭湯で女湯が空になった。
上階が高級ホテルの日活ビルの一階は、エールフランスやカンタス航空等の英語看板の店が並んでエキゾチックな雰囲気。庶民には縁遠い品が並ぶアメリカンファーマシーでウインドーショッピングを楽しんだ。三信ビルの地下にも舶来品を売る店があり、いうなれば高級アメ横だった。
最近ゴジラというと松井秀喜だが、初代ゴジラ登場が昭和29年。この年に記念すべき第一回日本自動車ショーが日比谷公園で開催され、自家用車無縁の庶民が38万人も訪れる盛況ぶりで、日本に車時代が近づいたことが予感されたが、150社を越えた二輪車メーカーの倒産続出もこの頃だった。