【車屋四六】何故か忘れられるオペル

コラム・特集 車屋四六

1886年創業だからオペルは老舗だが、創業時は裁縫用ミシン屋で、その実力はヨーロッパでトップ。いや世界一の生産量を誇るほどだった。そして自動車生産を始めたのが1900年。

ヨーロッパ自動車市場でもオペルは一番になるが、WWⅠでゼロからの再スタートという不運に遭遇。が、再びヨーロッパのナンバーワンに返り咲く。

世界恐慌のあおりで経営悪化するもGM資本で再建に成功、再び王座に返り咲くのだから、運が強いというか、したたかというか、とにかく生き延びては盛り返す体質なのである。

そして迎えるWWⅡ。ヒトラーの天下でアメリカ資本はボイコットされ、加えて連合軍の猛爆で工場は瓦礫の山。その中から再度再建、VWとシノギを削るまでになるのだから大したもの。

終戦後の日本市場でのオペルは、何故か忘れられやすい運命の持ち主だった。が、二度、大きな花が咲かせたことがある。

敗戦国にふさわしい、戦前の評判大衆車カデットは工場丸ごとソ連に持ち去られたから、オペルの再建は中級車オリンピアと上級のカピタンで始められた。

再建は順調に進んで、53年にカピタンが戦後開発型に生まれ変わる。日本では、トヨペットスーパー、オオタPF、ニッケイタロー、オートサンダルが登場した頃である。

54年になるとメルセデスベンツも戦後型に変身するが、当時のヨーロッパでは、オペルの方に人気があったそうだ。その時代の日本の輸入元は赤坂の東邦モータース。

当時の日本市場では、大型車は断トツ人気でアメリカ車だが、小型の大半はイギリス車、それに僅かなフランス車とイタリア車だったが、それより人気の敗戦国の車が居たのが不思議だった。

WWⅡで敗戦国といえば日本とドイツだが、トヨペットやダットサンでは太刀打ちできるはずもなく、不思議な車はドイツ製のオペル。そのオリンピアレコルトは、入荷→即完売で、プレミアムが付くほどの人気者だった。

もっとも人気はオペルだけではなく、独逸フォードのタウヌスも。両車に共通するのはアメリカ資本。で、両車は日本市場で大人気のアメリカンスタイルの斬新さが受けたのだろう。(日本市場でレコルトと人気を二分した独逸フォード・タウヌス。これも姿はアメリカン)

東邦モータースは、GMオールズモビルと人気者二本立てで元気が良かった。が、新築の赤坂のビルを三井銀行に貸し、明治通りに移転した頃から、自動車販売に力を入れなくなった。

で、ヨーロッパでの人気とは裏腹に、日本市場での人気は下降線をたどり、いつしか忘れられた存在になってしまった。経済成長期に入り需要旺盛な日本なのに、不思議な現象だった。

何時しか忘れられていたオペルの日本再登場は、いすゞがGMと提携した70年代。オペルカデット流用のいすゞジェミニ誕生で、GMオペルいすゞという三社提携の構図が生まれ、日本で忘れられたオペルの復活を目論んだのだ。

で、いすゞはオペルの販売を手がけるが、それまで育てた客層が違うのと、外車販売のノウハウ不足で売り上げは一向に伸びない、そんなときに輸入車業界のドン、ヤナセが乗りだした。

それには深いわけが。長年手塩に掛けたVWの輸入販売権をVWに取り上げられて、梁瀬次郎社長は憤慨した。ドイツ車販売の功労で独逸から貰った勲章などを全部持ち、VWに乗り込んだ。交渉不成立ならドイツ政府に突っ返すつもりだったのだろう。

が、不幸にして交渉不成立、そこで不人気のオペルをVWの対抗馬に育てて溜飲を下げようと思ったのだろう。さすがヤナセ、オペルの販売量は数年でVWに近づいたのである。

これまででお判りと思うが、何故か日本には馴染めないオペルではあったが、WWⅡ後に、日本市場で大輪の花を二度咲かせた歴史を理解頂けたことと思う。

その本家ドイツのオペルも、GM破綻のトバッチリで、中国に売られかけたり、それが中止になったりで、ほんろうされ続けているのが気の毒である。