いまでこそドイツ車は、ベンツ、BMW、アウディ、ポルシェ、フォルクスワーゲン、どれもが日本でのトップブランド。が、50年代の終わり頃までは、フォードとオペルが人気のドイツ車だった。
アダムオペル社の戦前は、ヨーロッパ最大の自動車メーカー。戦中はアメリカ資本がヒトラーに嫌われて冷や飯を食うが、親会社が戦勝国のGMとあって、戦後の再開は早かった。
45年には補修部品の製造を再開。46年トラック製造を再開。数ヶ月遅れてオリンピアを、48年になるとGMが経営権を回復してカピタンの製造も再開した。
ベルリンオリンピック記念のオリンピアは38年生まれ。それより上等なカピタンは39年生まれ。共に戦後の再開で甦ったが、そのカピタンは第100回「カピタンとナンチュウ」で紹介した。
戦前のオペルにはカデットを名乗る有名な大衆車があった。本来、戦後の再開には好適な車種だったが、工場がソ連占領地域だったのが不運。戦時賠償の名目で、図面、資料、金型、機械、すべて工場丸ごと貨物列車でソ連に運び去れてしまった。
モスクワ近郊に運ばれた工場は47年に稼働。誕生したのがモスコビッチ。名前はソ連流だが、そっくりそのままカデットだった。東欧諸国に輸出され「部品は心配不要オペルのが使えるから」と謳った話は有名だ。日本では「あつかましい」というのだろうが。
戦後日本に輸入された50年頃のフェイスリフト車は、かなり近代型に進化したが、ナンチュウのがそれ。続いてオリンピアは53年に、カピタンが54年にフルモデルチェンジする。
そのスタイリングは、戦後の繁栄を謳歌するアメリカ、そのトップメーカーGMの影響を受けて、飛びきり斬新だった。
58年、アメリカ風カースタイリングは更に進化、ジェット戦闘機をモチーフの姿も完全開花状態に。で、米国流ビッグサイズを、一回り小さくしたのが新カピタンの姿だった。
その頃になると、泥よけがないフラッシュサイドボディーも、もうヨーロッパでも珍しいものでは無くなっていたが、前後の窓が両サイドにまで回り込んだラップアラウンド型ウインドーは、図抜けた斬新ルックスだった。
ちなみにエンジンは直六OHV2473㏄圧縮比7.5で80ps/4100rpm、17.6kg-m/2400rpm。3MTで最高速度140km/h。ホイールベース2800㎜。全長4764㎜、全幅1785㎜、全高1500㎜。車重1310㎏。
その後のオペルは、ヨーロッパでは発展を続け、VWに対抗する一大勢力となるが、一時はプレミアムが付いた日本での人気車種も何故か輸入元の東邦モータースが力を入れず、何時か忘れ去られた存在になり、輸入も止まってしまった。
バブル経済で輸入車人気が上がると、GM関連のいすゞが輸入を再開するが、いすゞ車とは客層が違うことで良い結果が得られなかった。そんなところに頼もしい助っ人が現れる。
VWの販売権を失ったヤナセが、その代替商品として白羽の矢を立てたのがオペル。93年頃から本腰入れた販売が始まり、あっという間に万の桁に販売量を押し上げたのは、さすがヤナセの底力という他はない。
が、日本でのオペルはヨーロッパでの元気とは裏腹に不運の星の元に生まれたようだ。GMジャパンが設立され、もう一息でVWとの販売比率が逆転するかに見えた時、再び販売権を失う。”鳶に油揚げを浚われた”を地で行ったようなものである。
そして日本では不運なオペルは、現在、買うことが出来ない。