前回、メッサーシュミットで銀座のチロルに出勤するボコさんの話を書いた。そんなチロルで、思いだした話がある。
「貴方が犯人だったのですね」。ある日チロルにぶらりと入ると、いきなり洒落た紳士に声をかけられた。その日は、たまたまチロルの前が空いていたので、つい駐めて、フラッと入ってしまった。
「ウチのお得意さんで大森の方で大きな工場をやっているんです」とボコさんに紹介された直後の発言が、犯人の話だった。
後日、二部上場の立派な会社と判るが、年の頃は50歳前後、ストライプの洒落た英国風仕立てのスーツ、当時最高級のエジプト綿の注文仕立てであろうワイシャツ、当時は未だままならぬ舶来のネクタイ、いかにも遊びなれたという風情の紳士だった。
「いい年をして若い娘を隣に乗せて・と仲間に冷やかされて困っているのです・あれを見てください」と紳士が指さす所に私のジャガーが駐まっている。
おかしいな目の錯覚、と良く見れば1台間を置いた後方にも同色のジャガー。実はそれが私のだとナンバーを見て判ったのだが、ナンバー以外寸分違わぬブリティッシュグリーンのジャガーMK-VII・1953年型がチロルの店先に並んで人目をひいていた。
「いや私だって被害者なんです」・・・日頃、仲間から、どうせ隣に乗せるなら若いネーチャンにしたらどうだ、芸者は似合わない・・・と濡れ衣を着せられ迷惑していたのです。
「お互い様だったのですね・日本に数台しかない車が2台行きつけのチロルの前で出合う奇遇・これも何かの縁でしょう」
とにかく年の差はあろうとも車好きという共通点があればしめたもの、さっそく車談義に花が咲いたが、その後も何度かチロルで会うたびに楽しい話をしたものだった。
さて、私がジャガーMK-VIIを見て何時かこれに乗れたら、と夢を描いたのは、スピードライフ臨時増刊号”1954年版・自動車のアルバム(誠文堂新光社)”が動機だった。
1954年=昭和29年。当時大学2年生。朝鮮戦争の特需景気で日本経済が立ち直り始めたとはいえ、まだ敗戦の後遺症が消えたわけもなく、東京には進駐軍兵士が大手を振って歩いていた。そんな時代だから、ジャガーに乗れたらというのは、タラレバもない夢のまた夢だったのである。実際に乗用車が自宅にあるなど、裕福なよその家の話で、自分の家など考えても見なかった。
が、日本の経済復興は急テンポ。卒業直後に先輩から36年型シボレーを貰って修理。その後42年型ボロボロのシボレー2ドアセダン購入。サラリーマン三年目で味の素からの程度の良い中古車オースチンA40サマーセットを。そして次がジャガーだったのだ。
日本の経済成長と並行して、夢の実現も異常に早い時代だった。もっとも小生サラリーマンとしては最低で、青山から渋谷に移ったばかりの桑沢デザインスクールの夜学でグラフィックデザインをかじり、チラシやカタログのレイアウト、印刷という副業に精を出し、稼ぎが月給を遙かに上回る不良サラリーマンだったのである。
で、タラレバ実現の可能性が出ると、親しい赤坂溜池の車ブローカーに「ジャガーが出たらいち早く」と頼んだ。やがて電話があり、急ぎ出かけた神田の修理工場に綺麗なグリーンのジャガーが。工場の親父が「オーナーは歌舞伎の尾上松緑」というのも気に入り、即座に70万円で契約した。
日本に数少ないジャガーだが、その前にも一度試乗した。そこは芝のハイヤー会社イースタンモータース。いやに貫禄のある爺さまが助手席に座った。業者が同乗するのは乗り逃げを防ぐためで、当時は常識的行為だった。
5500回転のレッドゾーンまで空吹かし、調子を確かめ、四速フロアを一速に、一鞭入れ、時にはアクセルオンでコーナリング、爺さん文句を言うかなと思いきや「おっ若いのにやるじゃないか腕もいい」。売りつけようとの魂胆、調子の良い爺さまだと思った。
が、帰ってから名刺を見ると、代表取締役藤本軍次。途端に褒められたのが嬉しくなった。実は藤本社長は米国生まれの二世で、日本にカーレース興行を持ち込み、本田宗一郎のカーチス号などと戦いを交えたレーシングドライバーだったのだ。
その車はエンジンとサスペンションは良かったが、ボディーの状態が悪いので諦めた。その頃、旺文社の赤尾好夫と浜徳太郎のMK-VII(マークセブン)が著名だった。何しろ数少ない貴重品だから、これを逃すと次があるかどうか?と迷ったが待つことにした。
「腕の良い若者が乗るには少し疲れてるネ」と爺さまは微笑みながら送り出してくれた。