【車屋四六】高田屋嘉平の孫

コラム・特集 車屋四六

昭和30年代というと1960年前後だが、現在青息吐息のクライスラーも、その頃は元気一杯だった。ついこの間までビッグスリーと呼んだ大メーカーを筆頭に、WWII以前からの歴史を誇るいくつものメーカーも賑やかに活躍を続けていた。

GM、フォード、そして第三位メーカーのクライスラーは、大衆車プリムス、中級車デソート、高級車クライスラー、更に高級なインペリアルと雁首を揃えて、ユーザーの要求に応えていた。

三社の中で、クライスラーはデザインが斬新で、1950年代行後半、限界まで成長したテールフィンも高く大きく成長して、ライバルより目立つ存在だった。特に、高級車になるほど、大きなフィンを付けて、今にも羽ばたきそうな風情だった。

未だおとなしい54年型デソートの写真を紹介しよう。ライバルメーカーと同様、終戦で戦前の金型で再開した新車製造も一段落して、当然のように各社、戦後型にモデルチェンジが進む中、デソートは52年に戦後型に衣替えをした。

このデソートはなかなかの人気者で、52年登場したばかりの年に9万4000台を売り、翌53年には13万台に売り上げを伸ばすほどにファンの支持を得ていた。

写真は、昭和30年代、日本橋茅場町の市場通りに面して、ガソリンスタンドと修理工場を併設するカブトオートセンターの社員旅行だが、何処に行ったのかは思い出せない。右から1959年型VWビートル(青木所有)その後ろはプリムス1953年型、そしてデソート1954年型(高田所有)。

そして、54年型デソートで同行したのがオーナーの高田嘉七だった。彼は私の親友で、嘉七と呼ぶ古めかしい名前にはちゃんといわれがあるが、その辺は前の話(横綱御用達のテントウ虫)で少し触れたから憶えている人もいるだろう。

函館、当時は箱舘の豪商、高田屋嘉平の七代目の孫なので嘉七なのだ。観光で函館を訪れると山の上に建っているのが高田屋嘉平の銅像。彫刻家が嘉七をモデルに造ったものだ。

司馬遼太郎の”菜の花の時” は嘉平の一代記。また、かなり前にNHKが放映の”北前船”に登場の辰悦丸(レプリカ)、あれは淡路島生まれの嘉平が廻船業、高田屋創業時からの持ち船(千五百石船)である。

江戸時代の豪商10人を並べると、嘉平は紀伊国屋文左衛門より上位に在る。数度の航海の後、本拠を函館に移す決心をして、一族郎党はもとより、百姓、大工、井戸掘り職人など、多業種にわたる親方小者を連れて函館に移住する。

更に農産物植物の種苗を持ち込み、函館山に杉を植え、蛤、蜆など貝類を函館港内に、鯉、鮒、鰻などは養殖後、近在の湖沼河川に放流したりした。

淡路島から、数隻の持ち船で蝦夷地に向かう様子は、町が一つ、いや産業が丸ごと引っ越しという感じだったろう。そして最新の内地文化を持ち込み、函館発展に尽くしたという。

豪商高田屋の覚え書きを見たことがある。お年玉控えで、松前殿様金五両也、奥方様金三両也、御家老様金×両・・・。これでは殿様も頭が上がらなくなる。

また、択捉国後の出店番頭の控えには、五年間で海産物五万両を函館に送り出したとある。で、嘉七は、北方領土は日本固有のものと主張するが、筋は通っている。さらに有名な間宮林蔵の樺太調査で調査船の提供は高田屋。樺太に「これより日本地」の杭を打った時には、嘉平も同行していたという。

高田屋ばかりでなく、大商人が更に大きくなりすぎると、殿様にとっては目の上のタンコブ。で、何か落ち度を見つけて、家財没収という手で財産を召し上げるが、高田屋も財政逼迫した幕府と松前藩の手で家財没収の憂き目にあう。それで没収された千五百石船が47艘というのだから、大変な財産だ。後に、オークションで銭屋五兵衛が落札している。

だいぶ嘉七の先祖の話が長くなってしまったが、血筋は争えないもので、頭脳明晰、記憶の良さは羨ましい限りだ。論より証拠、弁護士を輩出する中央大学法学部出身だ。しかも人の面倒見が良いのだから鬼に金棒だ。

昭和30年代中頃だったが、アメリカに行った友人に頼んで、イタリー製猟銃フランキを手に入れた。が、狩猟解禁前だから撃てないのでストレスを溜めていた。

それを察したのだろう「弾を買っておけ撃てるところ探すから」数日経って出かけるぞというので出発。当時の私の愛車は1956年型シボレー・ベルエアだった。

当時は国道でも穴ぼこだらけだった。でも車が少ない時代だから、4.7LのV8に一鞭くれれば、軽く100キロオーバー、快調に日光街道を北に向かって走った。(日本中最高速度制限60キロの時代)

やがて着いた目的地は国立公園だった。「おいッ国立公園じゃないか」「大丈夫・きのう電話で断っておいたから」何のことはない国立公園の監視人が友達で「しょうがない・お前さんと友達じゃ捕まえないヨ」と笑っていたというのである。

その頃彼は、窓のないトヨエースのバンで丸の内に出勤していた。タイムカードを押してから二日酔いで寝ていたり、時には友達を集めて麻雀を打ったりしていた。彼のバンは当時としては奇想天外、車内に畳を敷いた和室仕立てになっていたのである。

ある日、新しいのを買ったと乗ってきたのが1954年型デソートだった。一方、シボレーの生産量はアメリカ随一で、56年型は26万9798台も生産された。

下位モデル150型、210型、そしてベルエアと三シリーズ。それぞれに2ドアセダン&ハードトップ、4ドアセダン&ハードトップ、ステーションワゴン、コンバーチブルとあった。

全長4938㎜、ホイールベース2875㎜。車重1459㎏。直六:140馬力とV8:162馬力。私のベルエア・4ドアセダンの価格は$1932~$2031で、2ATオプション値段が+$189だった。

当時GMには三種類のATがあった。キャデラックやポンティアック用ハイドラマティック、ビュイック用ダイナフロー、そしてシボレー用パワーグライド。

パワーグライドは、当時のアメ車の中では最低のATで、停車すれば唸るし、加速が緩慢だったが、トヨタはそれを真似たから、トヨグライドは、クラウンを初めとして、とにかく加速が緩慢だった。

56年というと昭和31年、日本では女性の整形手術が流行。切っ掛けは白井勇次郎という人が発明したオルガノーゲン。こいつで胸を膨らませるのだ。胸は判らないが当時の相場は、二重まぶた\5000円、隆鼻\10.000円、脇毛脱毛も人気だった。

余談になるが、当時最先端、今でも有名な新橋十仁病院の息子、現在院長の梅澤文彦は、高校のクラスメイトである。

シボレー・ベルエア1956年型:猟銃を持ち磐梯吾妻国立公園に出かけた時の写真。塗色はオリジナルではない