【車屋四六】ナポレオンは気球でイギリス征伐に

コラム・特集 車屋四六

読者には、もう耳にタコだろうが、1885年、ダイムラーによって内燃機関に命が吹き込まれた。その特許を買ったド・ディオンとブートンは、一気筒でたった0.5馬力ではあるが、1800回転という高回転を実現して見せた(ダイムラー=600回転)。

ド・ディオンは、一体鋳造だったシリンダーヘッドを組み立て式に、クランクケースを軽合金で、と近代的構造に改良した。最初の一気筒137㏄エンジンは0.5馬力だったが、1899年には3.5馬力へ、1901年には4.5馬力、1902年には8馬力へとパワーアップして、自動車やバイク製造業者に供給され、その数は当時としては驚異的な4000台を記録した。

ここで少々時代を戻すと、パリでは名の知れたプレイボーイのド・ディオン伯爵は、機械通でもあった。伯爵25才の時、パリの玩具屋で、精巧な蒸気エンジンを見つけた。「作者は誰」→玩具屋が紹介したのが、貧乏だが有能な技術者のブートンだった。

金持&技術屋のコンビで、ロールス&ロイスや、時計のパテク&フィリップやバセロン&コンスタンチンなど、二人名の銘ブランドが数あるように、ド・ディオン&ブートン(D&B)の車が生まれ、革新技術を後の自動車業界に残すことになる。

このコンビの最初は、もちろん蒸気エンジンだが、ダイムラーの内燃機関を知ると、早速特許を買い、改良に努めた。エンジン改良、技術の確立に自信を持ったD&Bは、その成果を1900年のパリ万国博覧会で発表した。それは、2サイクル星形12気筒という大きなエンジンで、注目を浴びた。

パリ万博の年、世界自動車産業の中心だったフランスには、1万1252台のバイク、5825台の自動車が走っていた。が、僅か3年後の03年には、バイク1万9886台、自動車1万9816台と、その急増ぶりに目を見張る。

一方、海峡を隔てたイギリスでも、1901年には早くもロンドンで自動車ショーが開催された。参加メーカーは115社。この様相は、1954年に百数十社が参加の「第一回東京モーターショー」の頃を想い出す。時代は違うが、イギリスも日本も、先進自動車技術を学び、追いつけ追い越せの時代があったのである。

その証拠に、ロンドンショー参加の115社のうち、105社の搭載エンジンが、D&B、プジョー、ハフニール、ミネルバ、ケルコムなど、全てがフランスやベルギーからの輸入物だったのだ。例えば、イギリス陸軍に作用された軍用バイク一号は、コベントリー製ではあったが、エンジンはドディオンだった。

その後、イギリスのバイク発展は目覚ましいもので、WWI中にイギリス軍と連合軍に、トライアンフ社だけでも3万台を納入した。一方、古来兵器造りでは天才の敵国ドイツは、将軍が4000台のバイクにサイドカーを付け、機関銃を装備して得意満面だったというが、連合軍には迷惑な新兵器だっただろう。新兵器といえば、イギリス軍が開発した戦車(タンク)も、ドイツ軍には憎らしい兵器だったろう。

日本人には、痛い目を見るとビックリ慌てて、大金持って買い付けに走るという悪癖がある。が、欧米人は異なる。ベンジャミン(英)は平和主義の科学者なのに、蒸気機関で飛行するシャルルの気球を見て「これほど未来に可能性を持つ発明を私は知らない」とイギリスに報告、「5000個の気球に兵隊二人を乗せれば軍艦で1万人を運ぶよりローコスト・しかも早い」と試算、「雲上から音もなく降下→攻撃は強烈なパンチとなる」と、軍に進言した。

さて、日本人だとどうなる?。1861年というから万延元年、咸臨丸で訪米の幕府使節団がフィラデルフィアで気球を見た。また、ブラック兄弟がボストンで世界初の航空写真の撮影に成功、というような進歩的気球を見たにもかかわらず、日本のエリートは「高く上がるだけで何の役にも立たない物」が帰国報告だった。もし陸軍の援助が有ればライトより先に二宮忠八が世界初飛行だったかも。

イギリスで開催された気球レースの出発。時代は咸臨丸より少し遅いと思うが、こんな気球を見ての報告が「約に立たぬ物」だった

私は昨年秋、ロンドンから海底トンネルを通ってパリまで行ったが、昔、ドーバー海峡はイギリスにも、フランスにも邪魔な存在だった。簡単に攻め込めないからだ。で、イギリス攻略が念願のナポレオンは、邪魔なドーバー海峡を気球で越えて、兵隊を送り込もうと考えた。

その頃の気球は熱気球ではなく、水素で浮揚する時代になっていた。が、気球に兵隊を乗せるアイディア、実はナポレオンの発想ではなく、先駆者が既に居る。1848年、オーストリー軍が、気球部隊でベニスを急襲した。世界初の降下部隊である。

正統派コレクターの年代識別で、04年まではベテラン、05~18年までをエドワーディアン、19~30年までがビンテイジと分類することを、前回で紹介した。このベテラン時代に、内燃機関は急速に発展、パワーアップと共にコンパクト化にも成功した。

私は子供の頃に「自転車を漕がずに済んだらなァ」と思ったが、昔の人も考えることは同じで、自転車に補助エンジンというシステムは、百数十年前既に誕生していた。

その搭載方法は豊富で、エンジンをハンドルに付けたもの、サドルの下に付けたもの、また1894年に登場のベニントン方式はタンデムシートの後席で従者が汗をかきかきペダルを漕ぎエンジンをコントロール、前席の主人は鼻歌交じりでご機嫌というスタイルも生まれた。さしずめ金持専用の横着バイクである。

また1895年のベルナルディ型では、後部トレーラーのエンジンで自転車を押す、いうなればRR型である。ロシア移民のワーナー兄弟は、1899年に軽量な1気筒4サイクル217㏄、1.5馬力を開発、革ベルトで前輪を駆動する自転車も開発した。

このワーナー兄弟、本職はジャーナリストだが機械好き、で、動力付自転車ばかりでなく、蓄音機や映写機、タイプライターと多くの発明で財をなしたが、晩年は不幸だった。稼いだ財産を母国ロシアに投資したが、ロシア革命で無になってしまったからだ。

1900年開催のパリ万国博覧会会場建物。2008年撮影だが、当時このガラス張り天井が大きな話題となった。日本からは薩摩藩も出品