1945年(昭和20年)、負けるはずがないと信じていた日本が戦争に負けてしまった。何しろ日本は神様の国だから、敵が攻めてきたら最後には神風が吹いてやっつけてくれると、子供の頃から頭に叩き込まれ、信じていたのに。
戦争が始まった頃、そんな洗脳を受けていた我々は、神国日本に戦いを挑んだアメリカ、イギリス、オランダなんてぇ国は、馬鹿な国だと思った。もちろん大人もそうだったようで、新聞や雑誌では、彼らを”鬼畜米英”と書いていた。
負けないと信じながらも、万一敵が上陸して本土決戦になったらば、竹槍で戦い、刺し違えて討ち死にと子供心に決心していたのだから、げに教育というものは空恐ろしい。
が、神風は待てど暮らせど吹かなかった。吹くどころか、広島に新型爆弾が落ち、二番目が長崎に落ちた頃には、新型爆弾にピカドンとニックネームまでが生まれていた。
とにかく、昭和20年8月15日昼の天皇陛下の終戦宣言放送で戦争は終わったのだが、私はその放送を栃木県岩舟村、高平寺の本堂で聞いた。
ボーイングB29爆撃機の日本本土爆撃が始まるのは昭和18年の秋も終わりの頃だったが、その年の夏前に、学童疎開(集団疎開)で、空襲の心配がないであろう田舎に、学校単位で地域を指定、学年、クラス毎に寺や旅館に分散疎開させられたのである。
私が通う麻布小学校の5年生は栃木県下都賀郡で、1組は岩舟村・高勝寺前の二軒の旅館に、2組が隣の大平村の大中寺へ。岩舟の方は、男子が玉置屋、女子が大黒屋に分宿した。明治この方、教育方針は”男女七歳にして席を同じゅうせず”で、男女共学は幼稚園まで、小学校になれば男女厳しく分けられた。
村の小学校には一ヶ月ほど通ったが、毎日高勝寺山頂までの石段620段の登り下りが子供にはかわいそうとなって、村はずれの高平寺に移って終戦までを過ごしたのである。
岩舟村役場の裏の岩舟小学校には、陸軍戦車隊が駐屯していた。本土決戦に備えていたというのだが、爆撃を逃れた兵力温存目的だったのかもしれない。
たしか指揮官が川野大尉だったと記憶するが、どこで徴発したのかBMWのオートバイを颯爽と乗り回していた。もちろん国防色と呼ぶカーキ色に塗り直してはあったが、大尉は優しいオジサンで、せがむと乗せてくれた。大きな背中にしがみついて走った楽しさを、今でも想い出す。
徴発とは、強制的に物品を取り上げることで、日本軍は、お国のためと称して、自動車、食料、家屋、何でも取り上げていった。徴発には強制執行権もあったそうだ。
日本が戦争に負けると、当然武装解除。で、進駐軍とやらが、変な自動車に乗って村にやってきた。後に判るのだが、その変な自動車がジープだった。
ジープは夜見ると、輝くヘッドライトが眩しかった。それまで我々が知っているヘッドライトというものは、山小屋の石油ランプみたいに元気がないものだったから、驚くのも無理ないことだった。もっとも戦争中は石油がなくなり、民間の自動車は薪を釜で不完全燃焼させた未燃焼ガスで走っていたから、ヘッドライトが輝くはずもなかったのである。
眩しい車には、戦争中に大人から教えられた鬼が乗っているはずだから、遠くから眺めるだけで正体を見ることができなかった。怖いもの見たさという誘惑よりは、恐怖心の方が強かったようだ。
そんな鬼の正体が判ったのは、終戦から一ヶ月ほど経った9月半ば、栃木から蒸気機関車で曳く国鉄を上野で乗り換え、省線で浜松町駅に着いた時である。国鉄も省線も今ではJRだが、省線はE電と呼んでいた時代もある。
今では大きなビルの陰で目立たなくなったが、プラットフォームは小高い所で、周りが爆撃で焼け野原だから、品川から新橋、銀座はおろか、房総半島、三浦半島までもが見渡せた。戦後一ヶ月の東京の空は、煙を吐き出す工場もなく、空気は澄み渡り、晴れた日には”日本晴れ”ばかりだった。
駅の階段を下り、改札口を出ると、そこにジープがいたので見ると、運転手の鬼が「ハロー」と云って笑った。驚いたことに、女の鬼もいた。女の兵隊なんて、日本の軍隊ではあり得ないことだった。
そんな男女の鬼が、下駄のようにジープを乗り回しているのを見ると「これでは勝てるわけがない」と思った。日本軍は、鉄砲担いで自転車に乗り”銀輪部隊”などと、はしゃいでいたのだから。
「危ないから側に寄っちゃいけないよ」と云われ、初めは警戒していた鬼達だったが、慣れてくれば気の良いお兄さん達で、ジープを良く見ると、実に珍竹林な格好の自動車だった。
何の飾りもなく、鉄板を折り曲げただけで、おまけにドアもない。戦争中、既に格好良いのは流線形だったから、戦争前に白木屋デパート(東急日本橋→コレド日本橋)で親父に買ってもらったブリキの自動車の方が、よほど格好良いと思ったものだった。