1963年開場の鈴鹿サーキットは日本初の本格的レース場だった。
鈴鹿は日本初のサーキットらしく、その後各種名イベントの発祥地となるが、その中の一つが日本GPだが、66年にトヨタ傘下になった富士スピードウェイの改装終了で開催はFISCOに移る。略してFISCO、正式には富士インターナショナル・スピードウェイと呼ぶ。
ファン待望レースの最高峰F1は、76年に富士スピードウェイで初開催された。そのF1の第2回開催は77年だが、第一コーナーで、ロニー・ピーターソン(ティレル)とジル・ビルヌーブ(フェラーリ)で事故発生。コースから飛び出したフェラーリで、観客2名が死亡、富士スピードウエイでのF1GP開催が中止された。
FISCOで中止になった日本でのF1GPレースは、87年になると鈴鹿サーキットで再開される。以後、F1GPは鈴鹿の年中行事となった。
が、このF1GP開催は、07年になるとトヨタが買収改装、新装なったFISCOに移り、08年も継続開催されるが、それ以降は鈴鹿とFISCOの隔年交互開催となる模様である。
さて、鈴鹿で毎年F1GPが開催されている頃、鈴鹿の持ち主ホンダは、関東に鈴鹿と同じような施設の建設を着々と進めていた。建設地の栃木県茂木(もてぎ)町は、若者が少なくなった、のどかな田舎町だった。
初めてその現場を訪れたのは1995年4月28日だったが、もうじきに現場という付近に近づいても、大工事の気配がまるで感じられないのが不思議だった。が、その理由はすぐにわかる。
194万坪、20世紀最後と称する大工事は、自動車でひと回りすると30分以上もかかる山に四方を囲まれた中で進行中。外からは中で何が起こっているのか全く分からないのだが、後楽園ドーム30杯分の土を山から削り、谷を埋めるという、第1期80万坪の工事の最中だった。
完成すると、インディ500で有名なアメリカ型のオーバルコースと、F1に代表されるヨーロッパ型サーキットが重なる、ぜいたくなレース場が現れる。観客は、コースが重なることで、ピットや観客席を共有することが出来る。このコースは、従来の目前しか見えないレース場と異なり、高所からの大きな視野が開ける。
“ツインリンクもてぎ”=英語では“Twin Ring Motegi〝→この変わった名前も、由来を聞けば納得するだろう。
深い谷を埋めて造成されたコースを走る車は時速300キロ超えるとあって、工事は入念。1メートル土を被せるごとにロードローラーで填圧するが、踏み残しを恐れ、GPS装置を装備のロードローラーは、その日の作業終了後には一台ごとに記録した軌跡をコンピュータに入力してチェック、踏み残し皆無を図っている。
造成地を走り回るダンプカーは、遠目には小さいが、じつは小山のようなコマツ製75t型ダンプカーである。「どうやって」と聞いたら「公道は走れないから」小さく切断して運搬、ここで溶接し組み立てたのだという。
100メートル近い深さの谷を埋めて造成されたサーキットを今見ると、当時を想像できないほど様変わりをしている。当時を知る者にとっては、驚異の土木工事である。もう1枚の写真は96年12月、埋め立て工事がほぼ終わり、これからは仕上げという頃。
10数年前の写真が見つかったので、当時を思いだしてみた。