【車屋四六】シビック見参

コラム・特集 車屋四六

{三角大福戦争}と云ったところで通じない時代になった。三木・田中・大平・福田の主導権争い…結果は{列島改造論}をブチ揚げた田中角栄の勝利で田中内閣が誕生する。札幌オリンピック開催、運転初心者マークが登場した昭和47年の出来事である。

昭和47年/1972年は、前輪駆動/FWDでは日本の元祖シビック誕生の年。が、本当は元祖ではない。既にスバル1000が、更にさかのぼればスズライトフロンテが浜松に登場している。

が、その先輩達は生産量も少なく、FWDを強調しなかったから市場で認識されなかった。シビックはFWD+ハッチバック姿を認識させ、以後日産トヨタも含めてのFWD化に火を点けたということで、日本FWDの元祖と思いこまれてしまったのである。

市場で人気を得たシビックが二代目に進化したのは79年(写真1.5CF¥91万円)。ちなみに廉価版1.3SE72万円。初代最廉価49万円より23万円も高いが、当時の日本は列島改造論で景気上昇まっしぐらだから、むしろ割安感を感じたものである。
ちなみに当時の物価を比較すると、72年蕎120円、都電30円、東京タクシー初乗170円/2㎞に対し、79年には蕎250円、都電90円、タクシー380円だから、シビックは安く感じたのである。

筆者がコーナリング中の初代シビック

二代目は、本田宗一郎の初代コンセプトを継承していた。遠目に判らぬほどの姿だが、ひと周り大柄になって初代の人気を引き継いだ。ちなみに全長3695は3830㎜、全幅1505は1580㎜にといった具合である。

前ストラット/後コイルの四輪独立懸架はそのままだが、スポーティー人気のプレリュードの足を熟成させたというだけに、軽やかな走りと共にコストダウンにも成功と云っていた。
また直四OHC1488ccエンジンは、圧縮比を7.9から8.6に上げて、70馬力から85馬力へと向上させている。

二代目は{スーパーシビック}の愛称で、81年まで年間8万台ペースを確保していたが、83年のフルモデルチェンジの頃、2年ほど売上げ低迷が続いたが、84年には10万台にもどし人気回復する。
ちなみに、シビックの年間最多販売記録は、75年の16万126台だった。

話変わって、二代目の写真バックに写るのは私の愛機/調布空港。米国製ムーニーM20C‘66年型/JA32390。セスナ170と同じ水平対向空冷四気筒160馬力は、四座席型軽飛行機仲間では低馬力でも、250km/hという250馬力級なみの速度で飛んだ。
WWⅡ以前開発のセスナに対し、ムーニーは戦後開発らしく、軽量で層流翼型、加えて引っ込み脚、可変ピッチプロペラというコンビの相乗効果で生みだされた高性能だった。

満タンで1600㎞以上という航続距離も自慢で、66年に買ってから82年まで愛用した。当時、友人と小さな商事会社を創業、実績ゼロの関谷産業からムーニーの代理権を引きつぎ、デモ機が必要と私が購入した日本初輸入機だった。

通常、軽飛行機は日本で組み立てるが、ムーニーは太平洋を飛んできた。軽量化のため翌桁が一体構造で分解不能が理由で、サンフランシスコ→ハワイ→ウエーキ経由で羽田にやってきた。
そのご売れたムーニーも全部フェリーで届いた。

米国から空輸されたばかりのムーニーと私:未だ米国の仮登録番号{N2618W}だが半月後{JA3290}と日本の登録番号に