【車屋四六】ミラージュとマカオとジャッキー・チェン

コラム・特集 車屋四六

初代ミラージュが誕生したのは78年で、83年に二代目にバトンタッチした。そして三代目へと順調に進化が進んだのは、国鉄が114年の歴史を閉じて民営化、JRが誕生した87年だった。

当時の日本は、バブルが絶頂期に達する寸前らしく、国中が好景気に沸き、日本の経済成長は何処まで続くのか、いや永遠に続くかのような錯覚にとらわれていた。

日本中で、地上げ地上げのお祭り騒ぎ。で、土地の値段上昇は天井知らず。企業の利益増加で週休二日制が定着して、サラリーマンは豊かになった家庭に金曜日に帰るようになり、夜の歓楽街の混雑は木曜がピーク。長いこと“花キン”と呼ばれた歓楽街の繁盛日が木曜に移り、“花モク”なる言葉が使われるようになる。

郷ひろみと二谷友里恵が結婚する反面、グレンミラー楽団専属歌手ジョン・シェパードと演歌歌手の千昌夫、異色の夫婦が離婚したのも87年だが、離婚に際しての財産分与で、資産は幾ら?と推測したら、ナント600億円。千昌夫が、不動産投資で稼いだものだった。

当時、ハワイに立派な別荘を持ち、六本木でエクスカリバーに乗る姿を見たことがある。

世の中、景気が良ければ車も売れる。三菱自動車も景気が良かった。そんな三菱は、伝統的に海外のレース/ラリーが好きで力を注ぎ、マカオグランプリも、その一つだった。

当時のマカオGPのスポンサーは、三菱自動車と煙草のマールボロだった。

両社共に会社のシンボルカラーが赤と白だから、レースが近づくとマカオ中が真っ赤に染まっていった。プラカード、旗、垂れ幕、お仕着せのウエア、何でも関連商品は赤かった。

商売柄の役得というか、私は毎年招待されるのが楽しみだったが、その時支給されるウエアも純白地に赤のトリム、そして赤いマークやロゴで一杯だった。日本なら、ちょっと恥ずかしいくらいなものである。

写真は、87年に新しくなったばかりの、ミラージュ・ワンメイクレースの1シーン。全車同じ白と赤のカラーリングで、違うところはゼッケン番号だけというミラージュが20台以上もスタートラインに並ぶシーンは、圧巻である。

レース名は中国語で「成龍盃」。日本語に翻訳すれば、三菱ジャッキー・チェン・トロフィーである。で、優勝者にはジャッキー・チェンからトロフィーが渡される。マカオでも、彼が現れると女の子から歓声が上がるので羨ましかった。

87年、ミラージュの三代目は初め3ドアのみでだったが、翌88年1月になると4ドアが追加された。そんな湯気が立つようなニューモデルを、競走用に仕上げたのが写真の車である。

三代目のミラージュは、1500が標準で、女性向けに1300と1500の「ファビオ」。強烈ファンのために、1600DOHCを搭載したスポーティな「サイボーグ」、更に2座席と割切った1500、1600の「ザイビクス」など、シリーズは充実していた。(写真左:市販のミラージュ・サイボーグ)

ちなみに、高性能版サイボーグ3ドアのスペックは、全長3950x全幅1670x全高1380mm。車重1トンに対して、直4DOHC16バルブは1595ccでターボ仕様の145馬力だから、下手なスポーツカーくそ食らえという感じである。

参考までに、マカオから帰って試乗したサイボーグ3ドアのデータを紹介しよう。

ゼロ100m加速が8.26秒、ゼロ400m加速が15.74秒。当時のレベルでは感心の加速力だった。反面、騒音レベルは悪く、アイドル56db、100km/h巡航時72db、今なら、顰蹙(ヒンシュク)を買うだろう。

サイボーグは、5MTで167万円、オプション込みで186万円だった。