ラスベガスの博物館で軍用ハーレーダビッドソンを見つけた。終戦直後に進駐軍が使っていたから懐かしい。ハーレー創業は1903年で、ライバルのインディアンは2年年上の1901年生まれ。
さて内燃機関で走る自動車の歴史は、ダイムラーの二輪で始まり、ヨーロッパ中に発展するが、10年頃になるとアメリカ勢が台頭、世界最大生産国になる。マーケル、カーチス、ホープ、ミッチェル、ワグナー、ローレル、エース、リーディング、スタンダード、ヘンダーソン、エクセルシア、そしてインディアンとハーレーダビッドソン等々、たくさん会社が生まれた。
海外で活躍を始めた二輪の日本上陸は14年/大正3年。当初、BSA,トライアンフ、ダグラスなどが輸入され、アメ車の輸入はWWⅠ末期。欧州勢の減少は、戦争で兵器生産に忙しかったからだろう。
もっとも09年/明治42年、少量だが双葉商会がインディアンを輸入しているが、本格的アメ車輸入は17年、大倉商事のハーレーからで、販売はパッカードの代理店だった日本自動車があたった。
この輸入大倉商事→販売日本自動車という構図は、WWⅠからの教訓で陸軍が絡んでいたようだ。幼い頃の記憶では、ハーレーはポピュラー、インディアンは高級品という印象だった。
初期のハーレーは984cc20馬力、当時ノッキング防止用添加剤/四エチル鉛などないから、圧縮比は5前後と低めで、それを2500回転ほどで回していた。
輸入が本格化するのは昭和になってからだが、大正中頃に台頭した軍国主義の影響で、国策でハーレーの国産化が進んでいく。
ちなみに、前述の日本自動車は、パッカード、フィアット、ダンロップなどの輸入販売で知られるが、満州国が誕生すると、政府の肝煎りで満州自動車を創業、国策に協力した会社である。
31年/昭和6年、ハーレーダビッドソン・モーターサイクル(株)を設立したのが国産化の第一歩だった。資本は自動車とは無縁な三共製薬で、社長は塩原三共製薬社長の息子塩原又作。
経営の実権は永井信二専務だったようだが、永井は塩原の女婿で、塩原夫人の姉は精工舎の服部家に嫁入りしている。
32年永井専務技術提携で渡米→35年品川の三共製薬敷地内に工場建設→36年国産第一号車完成/社名を三共、商品名を陸王に変更→37年社名を三共から陸王内燃機(株)に変更。
こうして、陸軍の大型二輪国産化計画は一段落。そして陸軍から九七式と認定の1200cc側車付自動二輪生産に拍車が掛かるのだ。
ちなみに陸王の名誕生の由来は、陸軍の英語嫌いからだが、名付けに困った永井がふと思い出したのが母校の応援歌{陸の王者慶応}で、陸王の名が生まれたと聞いている。
陸王の工作機械はハーレーから購入、永井帰国時に同行した米技術者が設置、生産管理も指導した。戦争中は新型開発の余力はなかったようで、戦後の生産再開で売り出した750型、1200型、共に戦前のままのサイドバルブだったと聞いている。