日本人大好きのBMWも、有名になったのは戦後しばらく経ってから。70年頃以前はマイノリティーな存在だった。
有名になる手始めは、六本木カローラとまで呼ばれるようになったBMWの3シリーズで、その登場は75年のこと。
70年以前、更にWWⅡ以前ともなれば、日本での知名度は一部愛好家以外には無名と云ってよい存在だった。
が、BMWには長い歴史がある。既に御承知と思うが、創立時は飛行機の発動機製造工場で、WWⅠ敗戦後にオートバイメーカーに転身、四輪乗用車市場に参入するのが29年のこと。
さて、二輪メーカーになったBMWの次の目標は当然四輪車だが、経験ノウハウなどまるでなし。で、当時世界的ベストセラーのオースチンセブンで、ライセンス生産に踏み切る。で登場するのが、3/15PS型ディキシーと呼ぶ最初の作品。
日本人大好きのBMWも、有名になったのは戦後しばらく経ってから。70年頃以前はマイノリティーな存在だった。
有名になる手始めは、六本木カローラとまで呼ばれるようになったBMWの3シリーズで、その登場は75年のこと。
70年以前、更にWWⅡ以前ともなれば、日本での知名度は一部愛好家以外には無名と云ってよい存在だった。
が、BMWには長い歴史がある。既に御承知と思うが、創立時は飛行機の発動機製造工場で、WWⅠ敗戦後にオートバイメーカーに転身、四輪乗用車市場に参入するのが29年のこと。
さて、二輪メーカーになったBMWの次の目標は当然四輪車だが、経験ノウハウなどまるでなし。で、当時世界的ベストセラーのオースチンセブンで、ライセンス生産に踏み切る。で登場するのが、3/15PS型ディキシーと呼ぶ最初の作品。
その次が、32年から35年まで生産の3/20PSと呼ぶ乗用車。発売された32年は昭和7年、上海で托鉢中の日本人僧侶が数十人の中国人に襲われ、青竜刀で惨殺されたという年。
が、戦後になって、事件はやらせと判明。川島芳子が陸軍特殊機関からの2万円で雇った中国人の仕業だった。
3/20PSは、ディキシーよりロングホイールベースになり、エンジンもストロークを伸ばして782ccに。サイドバルブからOHVに進化して3500回転で20馬力と強化されたので、最高80km/hと、当時の大衆車の中で、高性能ぶりを発揮したのである。
こんにちDOHCは当たり前の機構だが、当時はOHVが斬新な機構だった。
姿も評判がよく、ファッショナブルと新聞が褒めたりもしたが、長いボンネットはジャガー最初の乗用車と同じ手法で、中身は四気筒でスキ間だらけ。
が、その先端には我々馴染みのエンブレムが付いていた。
写真で、ラジェーターグリルの下方に、エンジン始動用のクランク棒が写っているのも懐かしい。
今見ても格好が良いスクエアなボディーだが、驚いてはいけない、実はダイムラーベンツ製。当時は、BMWとダイムラーは仲良しで、ダイムラーのジンゲルフィンデン工場生産のボディーが、BMWのバイエルン・アイゼナッハ工場でシャシーとドッキングして、3/20PSは一丁上がり、ということだった。
BMW開発のシャシーも斬新機構。前輪ばかりか後輪も2枚のリーフスプリングを介しての独立懸架。が、結果は芳しくなく「轍から抜け出せなかったり高速でふらついたり」という専門家の評価も、アウトバーンなど無かった時代の大衆車としては、欠点とはならなかったようだ。
アウトバーン建設の決定は33年のこと(筆者誕生の年)。
前年のドイツ大統領選挙でヒンデンブルグの再選を阻めずにヒトラーは敗軍の将となるが、ナチス党が大幅議席獲得に成功してドイツ議会第一党に。勢いに乗じてヒトラー大統領を実現、ナチの独裁政治がスタートした年でもある。
またドイツ国会議事堂が放火され、共産党の仕業と決めつけて取り締まりが強化されるが、戦後に、放火犯人はナチ自身と判明する。ドイツ、日本、両国共にマッチポンプ的手法を政治に利用したのだ。
*マッチポンプとは自作自演の欺瞞行為/マッチで火を点けた奴自身がポンプで火を消すという和製英語*
今では世界に知られるようになった、BMW馴染みの顔キドニーグリルが誕生したのも33年。それはBMW初の6気筒搭載のBMW308で採用されたのが始まりだった。
この頃のドイツは、WWⅠの後遺症が尾を曳いて不況のドン底。失業者数実に6600万人。で、彼等の不平不満解消のためにヒトラーが選んだ策が、希望を持たせること。
その中の一策が自動車の利用。国際レースでチャンピオンになり、強いドイツをアピールする一方で、国内では、アウトバーン建設という公共事業で金を使い労働者に仕事を与える。
一生懸命働けば君らも自動車が持てるとの国民車構想。新車購入時税金免除、保険料低減、等々。矢継ぎ早に自動車利用の手を打ち、失意の大衆に希望(夢)を与えたのである。