写真は1969年10月、第十六回東京モーターショー出品の、三菱コルト・ギャランGTX、だがGTOの間違いではない。
こいつはショー用のプロトタイプなのである。やがて姿そっくりで市販された時にGTOの名が付いていた。ちなみにショー出品のGTXは、市販のGTOシリーズの中では最上級車種になる、GTO-MRに搭載のDOHCを載せていた。
この頃の日本は、敗戦からの復興経済も終わり、乗用車は走ればいいという時代が終わり、車に夢を抱くようになっていた。論より証拠というが、フェアレディZ誕生は1969年。フォード・マスタングそっくりなセリカ誕生が翌1970年のこと。
公募で付いたペットネームの“プッシュホン”は、斬新な押しボタン式電話で、1969年に登場したもの。大人の玩具“バイブレーター”が初登場した年でもある。
そして、GTX改め、待望GTO発売が1971年で、好評な立ち上がりを示したが、“熊ん子”と呼ぶバイブの方は更に好評で、僅か3年間で30万本、1990年までに100万本という大ヒット商品となる。
市販されたGTOは、全長4125㎜、全幅1580㎜、全高1310㎜。車重900~980kg。後に3ATが出るが初めは4MTのみ。1597cc4G32型エンジンには3種類があり、GTO-M1用はOHCで100馬力/14kg-mで最高速度185km。
だが、誰も憧れたDOHC のGTO-MRは、125馬力/14.5kg-mで最高速度も200kmの大台をマークしていた。ちなみにゼロ400加速は16.3秒で、当時トップレベルの加速力を誇った。
125万5000円と高価格なMRのDOHCは、三菱初の市販DOHCで、レースエンジンからのフィードバック技術で開発され、高性能を誇る名品だった。
GTOのネーミングは、当時としては雲の上、憧れのスポーツカー、フェラーリ2500GTOからの頂き物と聞いた。しかし、コーダトロンカのテイルはフェラーリと同じでも、全体像の方は、当時アメリカのスペシャリティーカーでは代表選手の、フォードムスタングとそっくりだった。
日本の為替レートは長いこと1ドル=360円の固定相場だったのが、変動相場制実施で、いきなり277円の円高になった73年に、GTOの主力は2000ccへと移行する。(2000GSR/94万5000円)。
当時は、OPECが原油価格をいきなり70%アップしことでオイルショックが始まったことで、おカミ主導でガソリンスタンドの日曜祭日が休みになり、はたまた排気ガス規制も始まって、自動車の環境が厳しさを増してきた頃である。
排ガス対策の影響はいちじるしく、63年に2000GSRは51年規制をクリアしたものの、131万8000と値上がりしたのとは裏腹に、パワーが腰抜けになり、かつてのキビキビ走るGTOの面影は、何処を探しても見つからなくなってしまった。
だが、三菱ばかりでなく、対策が進むにつれて、どの会社の車も腑抜けの時代に突入するのである。