【車屋四六】NSUプリンツ

コラム・特集 車屋四六

NSU=ドイツ語でエヌ・エス・ウーと読む。由来は創業時の本社工場所在地、NECKARSURM=ネッカースウルムからの頭文字。
創業は1905年=明治38年、日露戦争で東郷元帥指揮下の日本艦隊とロシア・バルチック艦隊が、日本海で激突した年である。

もっとも05年は、自動車屋の創業で、それ以前はミシンと自転車で知られたメーカーだ。だから得意の自転車にエンジンを、と考えるのは当然で、オートバイメーカーとして大成し、WWⅡ以後もしばらくは世界的ブランドの持ち主だった。

WWⅡ以前は知らないが、戦後もNSUオートバイは日本に輸入されたが、東京三田にショールームがあったと記憶する。
私が大学生だった頃、日本高速機関という会社が、ホスクと呼ぶ、とても綺麗なオートバイを造っていたが、NSUのコピーだとオートバイマニアから聞いた。

ホスクには四機種があり、2ストローク123cc5馬力、143cc7.5馬力と4ストローク235cc9.5馬力、そして直立二気筒OHC・498cc25馬力が、最高速度145㎞というのに感心したものである。

1956年型NSUスーパーマックスモデル:OHC単気筒・247cc・18hp/6500rpm・4MT・プレス型フレーム・車重174kg・MAX.120km/h。浅間山麓鬼押出しにある博物館で撮影「輸入品」

さて、四輪車の方のNSUの生産は29年まで造って一時中断した。
29年というと昭和4年、世界一周途上の飛行船・ツェッペリン号が飛来、霞ヶ浦に係留されて全国に話題を振りまいた年である。

WWⅡ=第二次世界大戦が終わり、58年になり、NSUはオートバイ屋ならではの素晴らしい四輪乗用車で戦線復帰した。
オートバイ屋ならではと云ったのは、エンジンが空冷だったからで、二気筒OHCエンジンは598ccで30馬力、その5500回転は当時としては高回転で、オートバイ屋らしいと思ったものである。

初代から発展した二代目NSUプリンツ。リアエンジンのためラジェーターグリル無し。小柄ながら高い車高で居住性空間が広い

58年というと、日本ではラジオ東京テレビの“月光仮面”という人気番組を想い出す。この時代のドイツは、日本同様に敗戦国からの復興期だから、自動車市場は小型車全盛だった。

雨後の筍のように登場する小型車、ミニカーの中にあって、一応の居住性を備え、アウトバーンを120㎞で巡航できる実力は、ライバル車の中ではピカイチだった。

写真は90年代初め、ドイツのランゲンブルグ自動車博物館で撮ったもので、60年代前半の作。初期型のホイールベース2000㎜は、2040㎜に伸び、全長も3145㎜から3440㎜と長くなり、講評の居住性が更に向上している。

独特なモールがボディーを一回りするフラットデッキスタイルは、後に、プリンスグロリア、マツダファミリア、そしてシボレーコルベアなどにも影響を与えたようである。

同じ敗戦国の日本だが、乗用車を買えるような人は裕福な人達だから、NSUを含めたミニカーは、人気が無くあまり売れなかった。
人気は、もっぱら大型のアメ車で、企業のトップや高級官僚達御用達はキャデラック、リンカーン、クライスラーで、アメリカでは大衆車のシボレーやフォードも、日本では高級車だった。

また小さな乗用車が必要なオーナドライバーも、選ぶのはオースチンやヒルマンクラスだから、小型と云っても日本では中型に属する大きさだった。

ちなみに、昭和20年代、人気小型車のほとんどはイギリス車で、フランス車はごく僅か、イタリー車も僅か、ドイツ車は不人気というよりは知名度が低かった。