【車屋四六】フェアレディZ432

コラム・特集 車屋四六

世界初の超音速旅客機コンコルドがマッハ2.05で試験飛行に成功した1969年は、フェアレディZが誕生し、ドライバーが敬遠する交通違反点数制度がスタートした年である。

フェアレディZは、世界最大のスポーツカー市場アメリカをターゲットに開発された。当時の片山豊アメリカ日産社長の企画は的確で、Zは世界初の量産スポーツカーに成長するのである。

Zは、それまでの伝統の英国スポーツカーとは対照的性格を持たされていた。スパルタンまる出しで悪路ではケツが痛くなり、冬には寒風にさらされるのが英国風スポーツカー…もっとも、それがジョンブルの粋なのかもしれないが。

だが、Zはクロ-ズドボディーで全天候型。エアコン完備、乗用車レベルの乗り心地を備えながら「いざ鎌倉」となれば極限の性能を兼ね備えるという、万能スポーツカー、真のGT、云うなれば“羊の皮を被った狼”だった。

この時代になると、万能スポーツカーは庶民にとり高嶺の花ではなくなり買いたければ買える品物、そうなれば量産化必要は当然の成り行きだった。

日産は最低月産2000台を目標にローコスト生産を目指した。それまでは他モデルのシャシー流用が習慣だったが、量産ならということでスポーツカー専用の、太いフロアのトンネルで高い剛性を生み出すことも可能になった。

前輪はブルーバードやローレルと同型式のマクファーソンストラット、後輪は横方向に伸びたアームにストラットとコイルスプリングを組み合わせた独特方式が開発された。

1980年に追加の2by2・280Z-T/Tバールーフ(268.7):米国の安全志向で完全オープンが禁止されTバールーフ登場

しかし、その他のパーツは、可能な限り既存車種からの既存部品を使って、コスト低減を図った。で、実現した値段の最安が93万円、アメリカ向け240Z135万円、そして最高峰Z432が185万円。

ピンキリという言葉があるが、キリのZ432の値段はピンの二倍ということで、サーキットの覇者スカイラインGT-Rより更に35万円も高いという高価格高性能車が誕生したのである。

やがてZ432は、レース場を荒らし回るようになる。その高性能を生み出す心臓は、プリンスが心血を注いで完成したR380の強心臓をディチューンしたもの…サラブレッドの誕生である。

エンジンの形式名はS20型。直列六気筒DOHC。そして4バルブ、3チョーク、2カムという機構から“Z432”という形式名が与えられたのである。

1989ccから160馬力を絞り出し、ポルシェシンクロの五速MTを上手に使いこなせば、ゼロ400を15.8秒、最高速度210キロという当時としては最高の性能を誇ったのである。

1971年に登場した240Zは、折から厳しくなる排気ガス対策で73年に対策がほどこされるが、高性能のZ432は対策不能でお手上げ、市場から消えていったのが今思っても残念である。

ロサンゼルス自動車ショーに出品されたダットサン240Zのレース用車

Z誕生の69年の話題CM“Ohモーレツ”というのを憶えているだろうか。風で小川ローザのスカートが捲れて嬉しかったが、世の中のぼり調子の中、電機業界ではVTRの開発が始まり、ソニーのベータ方式と松下のVHSの激しい戦いが始まったのも69年のこと。決着はVHSに軍配が上がったのは御承知の通り。

渥美清と倍賞千恵子、山田洋次監督の名コンビから“男はつらいよ”寅さんシリーズの第一作が生まれたのも1969年だった。