戦後我が物顔に小型市場を快走するダットサン210キラーとして、初代コロナ登場が1957年。…1000ccで64万9000円だった。
この年、愛煙家に朗報判決が。喫茶店や食堂、クラブで、定価なら煙草を売ってよしと云う判決だった。それまでは認可された煙草屋以外での転売は禁止されていたので、便利この上なし。
初代は戦いに破れたが、意気揚々登場の二代目にも不幸が待ち受けていた。登場したら、打倒目標のダットサンは既に退場、後に名車と語り継がれるブルーバードが待ち受けていたからだ。
二代目も対日産戦には苦戦の末敗退するのだが、それでも苦肉の策と追加したのが、不評のパワー不足解消目的の1500。…DXが72万9000円だった。
日本初ロングサイズ煙草のハイライト登場。日本製カラーTVも登場するが17型42万円、21型なら実に52万円。大卒初任給1万5000円の頃だから庶民には無縁、高嶺の花だった。
だが、コロナは必死で努力を続ける。1962年にクラッチレスシフトのサキソマットをプラス5万5000円で。63年、トヨグライドATをプラス5万5000円で。このAT、このクラスでは先兵だったが、効率が悪いトルコンでしかも二速型。加速が悪いしニュートラルで唸り、評判が良いわけはなかった。
このATは、シボレーのパワーグライドと同型式だった。
トヨタ念願のブルーバードキラーとしての目的達成は、三代目の誕生を待たねばならなかった。三代目は、1200と1500の二本立てで、1500DXが64万4000円。
三代目登場の1964年、上野国立博物館に天下の名品ミロのヴィーナスが来日展示された。古い諺で“物見高いは江戸の常”というが、昭和になっても健在で、長蛇の列の大半は、どう見ても美術愛好家じゃない連中で、恥ずかしながら私も並んでいた。
そのころ日本は、日本初グランプリで鈴鹿から火が点いたモータースポーツ熱が盛り上がり、スポーティーカー時代到来間近という時期に来ていた。
1965年に登場したのがコロナ1600S。セパレートシートが未だ珍しく、コラムシフト全盛時代のフロア型はスポーティーで、エンジンがSUキャブ二連装というのも鳴かせる演出だった。
この年タレント出身の東京都知事が生まれて一部都民は首をかしげた。青島幸夫といえば、TVドラマ“俺はドモ安”や“意地悪ばーさん”の印象が強烈にインプットされていたからだろう。
その頃にはカラーTVも20万円弱には下がっていたが、葉書7円、国電初乗り10円という時代、まだ庶民には高嶺の花のままだった。
だが、敗戦から20年が経ち、ジリ貧の外貨事情も少々好転したようで、10%の頭金で海外旅行というJALパックが登場する。
ちなみに、日本人の平均月収が5万円だった頃の話しだ。
私の物書き稼業は1950年代にモーターマガジン誌で始まったが、1965年1月号に1600Sの試乗記を投稿している。
計測は晴れた村山工業技術院の周回コース。0‐100km加速11.6秒、ゼロ400m18.7秒で俊足と。6500回転でバルブサージング発生、一昔前なら舶来スポーツカーでも回らない高回転と感心している。
またコロナ1600Sの4R型は90馬力。対するライバル達は、ブルーバードSS/65馬力、フェアレディー80馬力、ベレット1600GT/88馬力、シルビア90馬力(コロナ1600DX/70馬力)。
当時の日本自動車界は発展途上中。登場する乗用車には傑作有り駄作有り。が、思い返せばそれぞれに主張があり、個性があり、楽しい作品ばかりだった。
近頃は、マーケットのリサーチ結果を電子頭脳で解析して生まれるような車ばかりで、愉しい車の登場は滅多にない。そんなところも、昨今若者の車離れにつながっているのだろうか。